旗本の娘

旗本婦人 伊東万喜

旗本婦人・伊東万喜には二人の娘がいました。

ひとりは前夫との間の子・直(なを)、もうひとりは伊東家に嫁いでから生まれた玉(たま)です。

旗本の娘であるふたりのライフコースを見ていきます。

(妻鹿敦子、2011、『武家に嫁いだ女性の手紙――貧乏旗本の江戸暮らし』吉川弘文館:117-122、170-3)

長女・直(なを)の生涯

伊東万喜の前夫との長女・直は文政元(1818)年に生まれました。

父親が病死したあと、母親の万喜が再婚するときに母の婚姻相手である伊東要人の養女になりました。

万喜の前夫との間に生まれたふたりの子は再婚後もふたり一緒に万喜の元で暮らしました。

しかし、女児・直の籍は伊東家、男児(精五郎)は他家の養子になり別々でした。

成長した直は18歳で嫁いだようですが、すぐに離縁して伊東家に戻り母と暮らしています。

「天保6(1835)年、18歳の頃に田安家家来で普請奉行・橋本善次の倅某に嫁したがほどなく離縁」

離縁の理由はわかっていません。

天保6年暮れ、母親・万喜は実家あての手紙に

「方々から縁談の話はあるが、いまだに思い通りのところがないので今は自分に孝行する日々を送っている」

と直の近況について書き送っています。

また、翌年の天保7年の手紙には

「直は真面目な辛抱者なので大番か両番かの勤めをしている人と見合わせたい」

と、母親として直の婚姻に対する希望を綴っています。

ところが、直はこの年の暮れ、麻疹(はしか)にかかり亡くなってしまいます。

19歳でした。

玉(多満)

玉(たま)は天保2(1831)年に生まれました。

本人が書いた手紙の署名には多満となっています。

長女・直とは13歳違いです。

天保7(1836)年、玉は5歳の時に婿養子(13歳)を迎えます。

同じく天保7(1836)年、万喜は玉の弟・金之丞を出産します。

そしてさらに、同じ年・天保7(1836)年12月に長女・直が亡くなっています。

未亡人・玉

玉は15歳の頃には未亡人になっていました。

玉の婿養子が成人前に亡くなってしまったためです。

作者・妻鹿氏は玉と婿養子は実質的な婚姻には至っていなかったものと考えられるとしています。

栗原家

弘化3(1846)年、玉が16歳のときに栗原家との婚儀の話が整いました。

母親の万喜は実家への手紙で栗原家について詳しく知らせています。

  • 栗原家の役職は「御広敷番」(おんひろしきばん)

  (「御広敷番」は江戸城大奥広敷に詰めて大奥の警備・監察および大奥の人や物の出入り、物品の購入管理や建物改修などを任務としている役割。付け届けが多く経済的に豊かな役職)

  • 当主69歳 妻71歳 当主は現役で勤めている 夫婦共に元気
  • 使用人 侍2人 中間3人 下女3人
  • 暮らし向きは至って良い
  • 倅は養子で20歳 ひとりのみである
  • 家の者は皆、酒が嫌い これは良いこと (万喜は「江戸は大酒飲みが多くて身代を飲み潰し子供を縁付かせることもできない人がいて困ったものだ」と書いています)

このように娘の嫁ぎ先として気に入っていたようなのですが・・・。

縁談解消

いったん栗原家との縁談は解消されます。

婚姻相手である栗原家の倅(せがれ)が近所の無一文の女と馴染んで子供までできたというのだ。

栗原家では、伊東家との間に婚儀の約束をしていた手前、子供を引き取ることもできずにいる。

実子がいないと、このような困ったことが起きる。

妻鹿敦子、2011、『武家に嫁いだ女性の手紙――貧乏旗本の江戸暮らし』吉川弘文館:121

その後も方々から縁談があるものの持参金、夫が在阪中、家のことを任せているなどの理由から玉の嫁ぎ先は決まらなかったようです。

栗原家への嫁入り

結局、玉は嘉永4(1851)年4月、22歳のときに栗原家に嫁ぎます。

最初に栗原家との縁談話が出てから約6年後です。

「栗原家の倅は少々出来が悪い。先々とても安心できない。」

母親の万喜は栗原家の倅について心配しています。

嫁入りから6年後、玉が祖母に宛てた手紙には2歳になる女児がいることなどが書かれています。

作者・妻鹿氏は安定した生活を送っている様子だとしています。

第2子出産

安政5年4月、万喜の手紙には「8月には玉が第2子を出産予定である」「今度は男子出生を願っている」と実家の母へ報告しています。

ところが、玉が安政5年8月18日に病死という記録が残されています。

妻鹿氏は出産に伴う死亡の可能性が高いと推測。

28歳でした。

ふたりのライフコース

直と玉、ふたりのライフコースでは婚姻が主たるイベントです。

ふたりは離縁や相手の死による別れを経験しています。

妻鹿氏は離縁はそれほど困難ではないこと、また未亡人や離縁を経験したことが再婚の妨げになっていないことを指摘しています。

そもそも婚姻の決断自体、本人が行なったことではなさそうです。

特に玉の場合は5歳だったので周囲の大人の事情による婚姻だったのは明らかです。

婚姻が身分の維持や金銭的な必要から行われていた証でもあります。

そして、直19歳、玉28歳、ふたりの短い生涯。

玉の場合、女性のライフコースの大きなイベントである出産が死につなっがっていました。

病はもちろんですが出産が女性にとって大きなリスクだったことを思い知らされます。

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