火災・地震と節約生活

旗本婦人 伊東万喜

伊東万喜の手紙

此方も類焼後、松三本尤つくり松一間半位、梅の木十四五本、

当年も二斗斗ばかりなり申候、此外種々の木々多く

柿・くり、追々大木成、くりも五合斗なり申候 来年からハ沢山ゝ年々なり可申候

妻鹿敦子編、2013、『伊東万喜書簡集』精文堂出版:96

類焼後、松を三本、もっとも「つくり松」一間半ほどのものと、梅の木を14、5本植え、今年で2年ほどになります。そのほかいろいろな木々をたくさん植えました。柿や栗の木もおいおい大木になり、今年は栗も五合ほどなりました。来年はもっとたくさんなり、年々増えるとおもいます。

妻鹿敦子、2011、『武家に嫁いだ女性の手紙――貧乏旗本の江戸暮らし』吉川弘文館:61

「つくり松」とは庭木用の松のことです。

類焼後、庭にいろいろな木を植え収穫を楽しみにしています。

伊東家は二度の火災と地震にあいましたが被災後は立派な家を再建しています。

最初の火災

最初の火災は天保13(1842)年3月7日でした。

江戸城下から出火したようです。

伊東家は小石川鷹匠町にありました。

この火事により類焼し六番町の若林肥前守わかばやしひぜんのかみのところへ移っています 。

若林肥前守 は夫・要人の従兄弟です ( 妻鹿 2011: 57) 。

二度めの火災

「家内中、着の身着のままで焼け出されました・・・」( 妻鹿 2011: 58)。

嘉永2(1849)年11月19日付の書状で二度目の火災について伝えています。

妻鹿氏は二度目の火災被害はおそらく弘化元(1844)年~2(1845)年の初めごろではないかとしています。

4年の間に二度の火事にあったのです。

家の再建

火災後、家の再建のために幕府から20両を借り年に4両ずつ返済しています(妻鹿 2011: 62)。

旗本は将軍から屋敷地を支給されます。

家の普請は自分でしなければなりません。

弘化3(1846)年の年賀状には前年9月から土蔵をつくり大晦日にやっと完成した旨の記述があります。

土蔵には7〜80両かかりました。

夫の丹精の賜物で火事も安心だと喜んでいます。

2度の火事に懲りて土蔵付きの家にしたのでしょう。

安政の大地震

安政2(1855)年10月2日に大地震がありました。

2度めの火災の9年後のことです。

江戸中心に倒壊1万4000軒、死者7000人あまりといわれています。

せっかく建てた土蔵もこの大地震で崩れてしまいました。 

地震後の再建

伊東家は被害が少なかったようで他の武家に比べると再建が早かったようです。

地震から2年半後の安政5(1858)年4月23日付の書状では、武家はどこも大地震のあと家が壊れ、いまだ半分も再建できていないと書き送っています。

要人事、朝夕万事倹約のみ致しております。・・・我が家は、朝夕倹約致し、そのかわりに土蔵も普請して、家作は惣かわら葺き、外に新座敷も惣かわら葺きにて、二間建ててきれいに致しました 。

・・・申し上げた通り、夫要人は日々倹約のみにて暮らし、普請は外の500俵高くらいよりも良いつくりにしています。・・・

妻鹿 2011: 62

万喜の夫は200俵どりですが、500俵どりの家よりも立派なつくりの家を再建しました。

小石川の家

伊東家は江戸小石川新鷹匠町にありました。

現在の文京区小石川4、5丁目のあたりではないかといわれています。

再建後の家を手紙から想像してみます。

260坪の敷地に家と土蔵がありました。

家の周囲には、栗・梅・柿の木を植え、庭木用の松もあります。

敷地内には使用人を住まわせる長屋、台所などがありました。

屋敷内には畑もあります。

そら豆、えんどう豆、大根、三つ葉、ちしゃ、いんげん豆、きゅうり、芋、ふじ豆などを植えていました(妻鹿 2011: 65)。

ふじ豆は千石豆ともよばれる豆です。ふじ豆

小石川の家は食料も調達できる場所でした。

恐ろしきほどの締まり屋

万喜は夫のことを「恐ろしきほどの締まり屋」と手紙に書いています。

自分の着物を残らず売り払ってでも、仰せられた額のお金をすぐに差し上げたいとは思っていますが、申し上げたとおり、夫がことのほか、恐ろしきほどの締まり屋なので、都合できかねます。

妻鹿 2011:58

万喜の実家からお金を送ってほしい旨の要請があった様子ですが都合できないことを侘びています 。

夫要人は、人にはまことに汚く品によると呆れるほどで、このような気性の人なので、夫の身内といえば実の妹二人と姪一人しかいないのに、三人への古着一つもつくらないのです。

妻鹿 2011:67

親戚付き合いにも倹約を通し万喜は呆れている様子です。

節約の成果

節約の成果として伊東家の暮らしは改善しています。

夫が倹約家だったおかげで立派な家を再建できたと万喜は手紙に書いています (妻鹿 2011: 64) 。

二度の火事を乗り越え、安政の地震後には生活が豊かになってるようです。

安政5(1858)年の手紙ではウナギやドジョウの蒲焼きを月に2度ずつ食べています。

高価だが身体に良いと里の親にも勧めています (妻鹿 2011: 69) 。

夫が倹約家で不自由さはあったものの節約の成果は大きかったようです。

しかし、妻鹿氏は夫の質素倹約だけで身分以上の家が建てられるものだろうかと疑問をもっています (妻鹿 2011: 64) 。

節約の成果だけではなさそうです。

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