幕領の代官のうち任地で暮らすのは半数ほどです。
江戸近郊の幕領を担当する代官や上方代官は通常江戸に住み用事がある時に任地に赴いていました。
陣屋
任地に赴任した代官は陣屋と呼ばれる代官所に住んでいました。
陣屋は代官の住まいであり役所、裁判所そして年貢の保管場所でした。
明治時代以降、ほとんどの陣屋が失われましたが飛騨高山、伊豆韮山には遺構が残っています。
陣屋の構造は代官が在陣していることや管轄地域の大小などの規模により異なりました。
飛騨高山の陣屋は「郡代」が赴任した代官所です。
「郡代」と代官は職務内容がまったく同じです。
「郡代」は代官より管轄範囲が広く布衣をゆるされた身分でした。
布衣とは無紋の狩衣のことで布衣を許されるのと許されないのでは格段の差がありました。
江戸時代初期は尼崎郡代、三河郡代などの名称が見られますが江戸中期以降、「郡代」が赴任するのは美濃笠松、豊後日田、飛騨高山に固定化されました。
陣屋誘致合戦
陣屋が村にあるメリットは大きかったようです。
村に陣屋を設置してもらうおうと誘致合戦が起こることもあったほどです。
陣屋があることで農民や役人の往来が増え村が活気づき雇用も増えます。
自然災害などがあった場合には代官の判断で年貢がひき下げられるケースもありました。
幕府の直属で融通が利く代官の恩恵を受けることができたのです。
陣屋で働く人々
陣屋には約30名ほどが働いていました。
手代は代官が任地で採用した人物で実務をまかせれていました。
農民や町人の次男、三男がつとめており武士身分ではありません。
手付は手代とほぼ同じ仕事をしていましたが御家人から採用された幕府の直臣でした。
手代と異なり休職中も年棒の支払いを受けることができるなど身分の違いが給与や待遇に反映されていました。
そのほか陣屋には警備などにあたる下級幕臣の足軽、手代の研修職である書役などが勤務していました。
陣屋で働く人々の人件費、出張旅費は全て代官に支給されていましたが充分な額ではなかったようです。
代官の9割が「引負(ひきおい)」という年貢流用による負債を抱えていたそうです。
陣屋の暮らし
通常は江戸から出ることのない旗本にとって陣屋での暮らしは慣れない辛い暮らしだったようです。
飛騨高山の「郡代」豊田友直は生活の様子を父親への手紙に書いています。
隙間風が二重の障子から吹き込んで夜に読書をしていると風の音が気味が悪い
雪が降る日は少しでも風が吹いたら縁側に雪が積もる
そのほか極寒のトイレのことなど習慣や気候の違いに戸惑いながらも家族とともに明るく笑い飛ばしていると書き送っています。
代官は陣屋で下僚や使用人とともに暮らします。
代官の妻は代官の私生活を支えるとともに奥方会を開くなどして下僚や使用人らとの交流に努めていたようです。
先祖代々、代官を務める代々代官を除くと代官の在任期間は平均14.6年。
代官の任地は平均三ヶ所。
一ヶ所で最長56年間代官を務めた人物もいましたが平均すると約5年間ほど陣屋暮らしが続いていたことになります。
参考文献
山本博文、2018、『悪代官は実は正義の味方だった 時代劇が時代劇が描かなかった代官たちのとの実像』実業之日本社。
西沢淳男、2014、『代官の日常生活』講談社。
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