女性に対する抑圧と差別が目立ち始めてきたのは武家社会になってからのことである。
大竹秀男、1989、『「家」と女性の歴史』弘文堂: 218
大竹氏は武士社会になって「家」観念が形成されたことで父系の血統を重んじる意識が強くなり家族集団における女性の存在が希薄になっていったとしています。
庶民に比べ武士層の方が女性の抑圧と差別が強化されたとしています。
「家」
大竹氏は江戸時代「家」思想が制度化されたことで「家」意識が増幅されることになったとしています。
幕藩体制では家柄や家の由緒、家の先祖の功績などを基にして家臣の格付けをしました。
相続は家相続により「家名」「家禄」「家業」を一体として相続しました。
家のすべてが当主に専有されました。
また、武士は主君に仕えて勤務できるのは原則として家族の中でただひとり、当主のみです。
婚姻関係などの身分行為に関することについては、すべて主君の許可を得る必要があります。
そのため、当主が家内を統制することとなっていきました。
大竹氏は単独相続による物的基礎と「家」の存続繁栄という目的により家内統制力を行使することが正当化されたとしており当主に家長としての権威を付与したのは「家」であるとしています。
家族法における女性
大竹氏は江戸時代の家族法において女性がどのように扱われているかを研究しました。
女子に「血脈なし」とは武士の家に生まれた女性は「家」の血統に入らないと言う考え方です。
女子についての届け出に義務はなく女子は他家に嫁ぐ者として教育されます。
将軍家や大名家などの例外を除き俸禄を受けることもなく家禄を分けてもらうこともなかったとしています。
本人の意志とは関係なく家の都合で縁談が決まります。
武士は家の格を重んじて家格のつり合いで縁組がされました。
婚家では妻は子を産むのが何よりも大事であり出産や育児だけでなく夫や夫の親の身の回りの世話などを行うことも大事な勤めとされています。
妻の仕事の領分は家の中だけであって外向きのことには口も手も出してはならなかったとしています(大竹 1989: 218-23)。
幕藩法
長野ひろ子氏は幕藩法において女性がどのように扱われているのかを研究ています。
徳川幕府は権力維持のために多種多様な法度を設けて身分制を強固なものにしていました。
その中でも幕府が女性を従属的にとらえていた証拠だと考えられるのは大名の家族を江戸屋敷に住まわせること、出女を禁止するなどの法度だとしています。
長野氏は幕藩法の武士へのさまざまな規制は武士階級の女性だけでなく庶民にも影響を及ぼす結果となったと指摘しています(長野ひろ子、1990、「幕藩法と女性」女性史総合研究会編『日本女性史 3 近世』東京大学出版会、163-91)。
女性にも実権はあったのでは?
武士社会における女性の地位低下の実態は従来考えられているより厳しいものではなかったのでは?という意見もあります。
脇田修氏は武家社会における女性の地位低下は認められるが近世以前からの傾向であり武士社会が確立したことにより始まったことではないとしています。
武士社会になってから女性の地位が低下したとみえるのは、その所有と負担体系、特に役負担による編成が大きく影響しており女性の地位低下の実態は考えられているよりは厳しいものではなかったのではないかとしています。
その例として、
- 武士階級の女性には知行がある者もいたこと
- 化粧料や後家分が広汎にあったことなどにより女性名義の財産や遺留分が意外に多いこと
- 貞女二夫にまみえずという理念があったわりには江戸時代における女性の再婚率が高いこと
などをあげています。(脇田修、1990、「幕藩体制と女性」女性史総合研究会編『日本女性史 3 近世』東京大学出版会、1-30
女性の生活から
武士社会になってからの女性の地位低下は共通の認識として明らかにされています。
家父長制と身分制により顕著なものとなったようです。
しかし、その実態は個別にみてみるとそれほど低くない可能性もあるのではないかとの見解もあります。
地方から江戸に出て旗本婦人になった伊東万喜・江戸近郊に住む世田谷代官婦人の大場美佐・水戸藩の下級武士で塾師範の婦人・関口きく。
三人の地域、身分は異なりますが、武士社会に身を置いていたという共通点があります。
彼女たちの生活の様子を知ることで武士階級の女性の実態を少し覗き見ることができるのではないでしょうか。