伊東万喜の手紙
手前方留守の暮ハ、一ケ月壱両米人給のミのけてきりはり、糸つき一さい上下五人の入用、石の上の住ひ故、万事ニ日夜いり何も喰すニ、百匁ニ百匁のこし候者むつかしき事、
妻鹿敦子編、2013、『伊東万喜書簡集』精文堂出版:117
夫・要人が在番で留守のときは、一ヵ月一両あての米と人件費を除いて、衣服も切り張りし糸継ぎをし倹約しても、上下五人(奉公人)の入用もいります。「石の上の住ひ」なので、万事につけ日夜生活費がかかり、何も食べずに100匁・200匁残すのは難しいことです。
妻鹿敦子、2011、『武家に嫁いだ女性の手紙――貧乏旗本の江戸暮らし』吉川弘文館:37
夫が留守中の家計は家族と奉公人5人の生活費がぎりぎりで倹約が必要な状態であると両親に窮状を訴えています。
石の上の住ひ
「石の上の住ひ」 とは給与としての米のみを収入としている生活を意味します。
伊東家の役職である大番は警護を主な仕事としているため、もらい物のあるような役職ではありませんでした。
武士にとって、もらい物の有無は直接生活の質に影響していました。
現物収入は武士にとって副収入となっていたのです。
もらい物
『井関隆子日記』に記載されている「もらい物」は豪華で種類豊富です。
伊東家と同じく旗本ですが井関家当主は広敷用人という大奥に勤務する武士です。
『井関隆子日記』 の著作者である深沢秋男氏は、井関家には大奥からの下され物が多く、かなり家計を潤していたとしています。
日記 は1840(天保11)年1月1日から1844(天保15)年10月11日、井関隆子が56歳から60歳までに記したものです。
井関隆子は伊東万喜より12歳ほど年長です。
万喜が44歳から48歳の頃、同じ江戸で旗本婦人として存在していたことになります。
下され物は、衣装、太刀、火鉢、縮緬、菓子、果物、魚、赤飯、銀貨など。
毎年の正月、節句、出世祝、月見、出張など、行事の都度、大奥からもらい物をしています。
(深沢秋男、2007、『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』文藝春秋:22-35)。
現金
もらい物のない伊東家は 米以外を現金で購入しなければなりません。
伊東家の家禄は200俵です。
家禄というのはその家の一年分の給与です。
家禄200俵は一年分の給与が玄米200俵であることを意味します。
給与の米は幕府の米蔵から春・夏・冬の3期に分けて支給されます。
江戸では浅草蔵前に蔵宿という出納管理業者がありました。
この蔵宿が米を引き受け売買し手数料をとって現金化します。
給与として支給される米のうち自家消費分は、よけておき余った米を現金に換金しました。
(丸太勲『江戸の卵は1個400円!モノの値段で知る江戸の暮らし』光文社:31)。
給与としてもらう米の量は一定ですから米の価格の変動によりその年に入ってくる現金収入が変化します。
現金収入が足りない場合は蔵宿から高利で借金をするという結果になってしまうのです。
蔵宿は札差ともいわれ高利貸しでもありました (妻鹿 2011:43) 。
現金の不足は借金で賄われていたのです。
出張手当
在番(京都二条または大坂勤務)には江戸からの出張手当が支給されました。
家禄と同額です。
伊東家は家禄200俵なので、さらに200俵が上乗せされます。
夫・要人の在番は、ほぼ3年に一度、期間は一年間ほどでした(妻鹿 2011:41-2) 。
万喜は、加給を一種のボーナスとして期待していました。
しかし、在番のための準備には、供の者を従え戦闘態勢の身支度を揃えなければなりません(妻鹿 2011: 53)。
出張手当が全額ボーナスとはならず足りない武士もいたようです。
上下5人
手紙にある上下5人とは奉公人のことです。
武士は身分に応じ奉公人を雇用する必要がありました。
家禄200俵の家では侍1人、中間2人、下女2人を雇わなければなりません。
伊東家でも5人の奉公人を抱えていました。
妻鹿氏によれば当時の5人分の給金は年間14両です (妻鹿 2011: 54) 。
奉公人を雇うには給金を出し、さらに彼らの着物や食費も負担しなければなりませんでした。
年収は280万円か2100万円
妻鹿氏は伊東家の年収を現在価値に換算して年間収入は2100万円から2800万円としています(妻鹿 2011: 50)。
伊東家の暮らしぶりを分析するのに1両=40万円という現在価値で換算しています。
「日本銀行金融研究所貨幣博物館」のホームページでの試算を使用しており、1両の価値を米価で換算すると4万円くらい、賃金で換算すると30万から40万円になるとしています。
伊藤家の年間収入は米価で換算すると280万円ほどです。
伊東家には使用人がいることから米価で換算できないとして賃金での換算を採用しています。
奉公人5人の年間の給与が14両ですから賃金による現在価値に換算すると420万円から560万円です。
伊東家の場合、年収の2割が奉公人の給与に充てられていたことになります。
現代価値への換算
現代価値への換算で単純に比較することはできません。
「日本銀行金融研究所貨幣博物館」のホームページでは、江戸時代と現代の価値を比較することは困難で誤解を招きやすいとしています。
- ものの価値が現代と江戸時代では異なること
- 同じ江戸時代でも時期によって貨幣価値が変化していること
が理由としてあげられます。
妻鹿氏も当時と現在では経済状況が違うため比較が難しいと断っています(妻鹿 2011: 50)。
しかし、万喜が生活費に余裕がないと感じている手紙を残しているのは事実です。