伊東万喜の手紙
まつ手前事ハ、大坂表在番先一同 大丈夫ニて、小児お玉事も大丈夫ニて 留守中皆々薬一服も入不申、最早下りも六七十日に相成、悦まいらせ候、たま事も先とうかはつめい物ニて、此節ハいろいろけいつくしいたしまいらせ候、近所の子どもよりもちゑ殊外はやく、誠ニせわなく成人いたしまいらせ候
妻鹿敦子編、2013、『伊東万喜書簡集』精文堂出版:18
まず、こちらの夫要人は、いま大坂表で在番中ですが、元気でおります。お玉も江戸の留守家族全員元気で薬一服も飲む者はありません。あと六、七十日で夫の在番も終わり江戸へ帰ってくるので喜んでいます。玉もまず利発に育っていて、このごろはいろいろな芸をするようになりました。近所の子どもよりも知恵がことのほか早く、世話なく成長することでしょう。
妻鹿敦子、2011、『武家に嫁いだ女性の手紙――貧乏旗本の江戸暮らし』吉川弘文館:37
手紙に登場する「たま」=「玉」は要人との間に誕生した長女で近所の子に比べて利発な子であることを報告しています。
大番与力の養女
1829(天保元)年、万喜は最初の夫が亡くなってから6年後の34歳には大番番士・伊藤要人と再婚していたようです。
万喜は婚姻の前に一旦、大番与力の中村惣兵衛の養女になっています。
妻鹿氏は、万喜が中村家の養女となったのは嫁ぎ先の伊東家と家柄のつり合いをとるためではないかとしています。
万喜は最初の婚姻で叔父の養女になっています。
万喜の叔父は手腕を買われて幕臣にとりたてられ江戸へ出て日光普請役となった人です。
財力と人脈を持った人ではあったのですが幕臣としての地位は最下位でした。
伊東家と婚姻を結ぶためには幕臣としての地位が叔父よりも高い中村家の養女となることが必要だったと考えられます。
伊東家
一方、夫の要人は初婚とみられ伊東家と同じ大番の土屋家から伊東家へ養子に入っています。
伊東家は3代将軍・徳川家光の時代から200俵どりの大番番士を勤める家柄でした。
また、伊東家は何代かにわたり親戚筋から養子を迎えつないでいる家でした。
要人も伊東家の親戚筋である土屋家から養子に入っていることから伊東家本来の血筋は無きに等しかったようです。
家柄が不釣り合いなうえに、ふたりの子持ち未亡人である万喜がどうして伊東家に嫁として受け入れられたのか。
妻鹿氏はこのことに疑問をもっており、その理由として伊東家にかなりの借財があったためではないかと推測しています。
旗本
旗本とは徳川幕府の一万石以下の家臣で将軍にお目見えできる家臣ですが、大名に匹敵するほどの石高を持つものもいれば、食べていくのもやっとというものもいます。
妻鹿氏によれば、伊東家の200俵どりというのは5段階に分けた旗本ランクの上から4番目です。
中の下といえるこの階層が全旗本のなかの20.9%を占め、旗本の階層の中でも最多数で典型的な旗本の家といえるとしています。
江戸幕府に属する武士は旗本のほか御家人がいます。
御家人とは将軍にお目見えできない下級の幕臣です。
妻鹿氏によると、亨保期(1716-36)の段階で御家人の数は17000人おり、幕臣全体から見れば伊東家の階層である200俵どりの旗本は堂々たる由緒ある家柄であったとしています。
大番
大番とは将軍直属の軍団で、その職務は江戸城本丸・西の丸の警護・および上方在番と呼ばれる京都二条城・大阪城の警護を担う職です。
江戸幕府初期からあり最も権威ある職でもありました。
大番組は12組ありました。
各組、一番上に大番頭がおり、その下に組頭4人、その下に200俵高の番士50人、以下与力10騎、同心20人で組織されていました。
3年に一度の交代で、二条在番(4月交代)あるいは大坂在番(8月交代)を勤めました。
交代は各番ごとに東海道を上下しました。
単身赴任
要人も三年ごとに単身赴任します。
万喜はその間、江戸での留守居となっていました。
夫の留守中、万喜が使用人らに指図をする立場になっていました。
手紙に登場する「たま」=「玉」は要人との間に誕生した長女で近所の子に比べて利発な子であることを報告しています。
万喜は、要人がいつか京、大坂に転勤になり、自分たち家族が故郷美作の近くに住むことができるようにと切に願っていると手紙に書いています。
この時代、代々の家の職が変わることは、ほとんどありません。
万喜の願いは叶わず夫・要人は終生、大番の番士でした。
妻鹿敦子、2011、『武家に嫁いだ女性の手紙――貧乏旗本の江戸暮らし』吉川弘文館:36-47