伊東家は旗本で大番を務める家柄です。
でも借金だらけ。
その解決策として娘に婿養子・平吉を迎えます。
作者の妻我敦子氏は「平吉は伊東家にとって福の神であったようだ」と述べています。
妻鹿敦子、2011、『武家に嫁いだ女性の手紙――貧乏旗本の江戸暮らし』吉川弘文館:49−52、103
借金8000万円!
伊東家の借金は現代価値に換算すると、なんと約8000万円!
1836(天保7)年の万喜の書状に記された伊東家の借金は蔵借180両、他借50両。
妻鹿氏によるとこれは年間収入の3倍に相当する額だそうです。
日本銀行のホームページでは現在の大工の賃金に換算すると1両=約35万円になるとしています。
伊東家の借金は35万円×(180両+50両)=8050万円です。
婿養子
1835(天保6)年、娘に婿養子を迎えます。
養子縁組は夫・要人の独断ではなく、万喜と相談して夫婦二人で決めたものでした。
娘の玉は5歳、婿養子として迎え入れる平吉は13歳でした。
平吉は夫・要人の従兄弟・若林市左衛門の四男です。
(若林市左衛門を又従兄弟、平吉を三男としている手紙も存在)
若林市左衛門は作事奉行でした。
作事奉行とは幕府の土木建築を担当する部署で役得(もらい物など)のある経済的に豊かな部署です。
しかし、伊東家は大番という江戸城、大阪城の警護にあたる部署で役得がありません。
当時、役得の有無は家計に大きく影響していました。
婿養子の平吉は日々、馬・素読・手習・弓・槍など武術と学問に励んでいます。
平吉は、まだ武士としては修行の身で職にはついていないようです。
持参金
平吉の持参金は80両でした。
男児のいなかった伊東家でしたが、1836(天保7)年5月頃、万喜は40歳で男子・金之丞を出産します。
婿養子を迎えた翌年でした。
妊娠中の手紙には「おなかの子が男子かどうかわからないが、かねての約束であり借財を少しでもしのぎたく、そのまま養子を迎える」と記載しています。
婿養子受け入れは借金返済のためでもあったのです。
それだけ伊東家は金銭的に追い詰められていたのだろうと妻鹿氏は推測しています。
「武士職」と「家」
「武士職」に就くには武士の「家」を継ぐ必要がありました。
武士という職業が「人」ではなく「家」に付属していたと捉えることができます。
次男、三男は継ぐ「家」がありません。
そのため武士の家に産まれても特別のことがない限り長男以外は「武士職」に就くことができませんでした。
伊東家の事例は
- 次男以下は持参金と引き換えに武士の家に婿入りすることで「武士職」に就くことができた
- 男児がいなくても女児に養子を迎えて「家」を継いでいくことが可能だった
ことを教えてくれます。
つまり、女性は「家」を継ぐことができても「武士職」に就くことはできなかったのです。
婿養子は福の神
妻鹿氏の調べによると婿養子の平吉は成人する前に亡くなってしまいました。
未亡人になった娘の玉はしばらくして他家に嫁ぎます。
伊東家の「家」と「武士職」を継いだのは実子・金之丞でした。
伊東家は婿養子の持参金のおかげで経済的に救われました。
伊東家にとって婿養子は福の神だったのです。