元治2年

彦根藩世田谷領代官の妻 大場美佐

元治元(1964)年、池田屋事件、蛤御門の変が起きるなど世の中が騒がしくなっていました。

美佐の日記の表紙には「4月19日改元の事」と記されています。

元治2年は江戸幕府最後の元号「慶応」に改元されました。

人別改め

三月八日曇時々小雨 

人別御帳面紙折渡ス、年番村役人出勤致ス、りんち・ミさ手伝致ス 

八幡山から玉子到来ス、 

元治2年3月8日は現代の暦では4月3日。

世田谷代官である美佐の夫・与一は人別改めの準備をしています。

娘のりんと美佐は紙折りの手伝いでしょうか。

3月19日から3日間、与一は彦根藩役人・広田氏とともに領内を確認してまわります。

3月22日「宗判」のために寺の僧が来て人別帳に旦那寺としての印を押しました。

これにより領内の家々が寺と檀家関係を結んでいることが証明されました。

人別改めは宗門改めと人口調査とが合体したようなものでした。

「宗判」により6年に一度の人別改めが無事終わりました。

「旦那大病につき」

元治2年、日記には「薬」が多く現れます。

薬取りを使いの者に頼むことが多く美佐自身が医者に相談しに行ったのではないかと思われる日もあります。

薬取りの行き先も「溝の口」「中村」「赤城」と変化しています。

6月、与一が籠で「赤城」に出かけるようになります。

薬を必要としていたのは与一だったのです。

医者が来る日もあります。

しかし7月6日「赤城」へ行ったのが最後になりました。

7月7日、日記に「旦那大病につき」と記されます。

それからは与一の兄弟の出入りや祈祷などで忙しくなっていきます。

17日に彦根藩役人の広田氏に玉川の普請の見分ができないことを「大病故不参之事」と頼み、30日「養子の事」で人々が集まります。

翌日の8月1日、広田氏が養子相談に来て6日養子願いと鉄砲の件で彦根藩の御屋敷へ使いを出しています。

のちに養子になる弘之介は6月26日から代官屋敷に出入りしていました。

弘之介は美佐の弟です。

8月18日

十八日雨終日 

弘之介千葉へ遣ス、清三郎供に行夕方帰宅ス、昼頃からご様子悪敷即刻いしやへ人遣ス、親類へも遣ス事、原夕方御出、夜ニ入り千葉氏御出被成候

(「大場美佐の日記1」 世田谷区 1988: 189)

終日雨が降り続く日、与一は亡くなりました。

39歳でした。

美佐は33歳、与一とともに生活した期間は8年間でした。

代官の仕事

翌日19日、天気も回復しました。

所々へ知らせを出します。

20日

幕府からの役人数名が「角場」の出来上がりを見に来ます。

「角場」とは鉄砲の練習場です。

幕府の命により建設していたようです。

彦根藩の広田氏が早朝から付き添いました。

三軒茶屋へ料理を注文して役人の接待もしています。

21日

早朝から弘之介が彦根藩お屋敷へ出府します。

書き続けられる日記

廿二日曇小雨 

千葉・福田・中延・角田・当間御出御泊り、夜ニ入内葬無滞致ス、広田氏出郷之事、  

22日

与一が亡くなってから4日目の夜、親戚と広田氏が集まり与一の内葬が行われました。

養子縁組、角場見分、代官職引き継ぎを滞りなく終えたあとです。

美佐が連絡をとり手配し段取りを整えた可能性が考えられます。

病に臥した与一が指示を出していたのかもしれません。

以後、美佐は代官となった弟・弘之介の動きを中心に日記を書き続けます。

参考文献:「大場美佐の日記」世田谷区1988:168-189

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