家を結ぶ

武士階級の女性

ライフサイクルに注目している藪田氏によれば、武士階級の女性たちには町人や農村女性と異なるライフサイクルがあったとしています。

大きな違いは生まれ落ちた家と嫁いだ家を結ぶという使命を負っていることでした(薮田 1990: 244-71)。

武士の結婚

鎌倉時代から戦国時代、武士は政略結婚により妻の家と縁者関係を結ぶことで地位の安定を図りました。

戦国大名は家臣の縁者関係を把握するため厳しく婚姻統制を行いました。

江戸幕府や諸藩も大名、家臣に対し婚姻のための許可制あるいは届出制を設けていました。

時代が進むと戦略結婚は少なくなりましたが家格が同程度の家同士の婚姻が重んじられるようになっていきます。

取り上げた3人の女性たちの記録では婚姻は家格や経済状態を考慮して行われており本人の意思を考慮した形跡はありません。

婚姻後も苗字が変わることはなく女性は実家の苗字のままです。

幕臣である旗本婦人・伊東万喜のライフコースには養子縁組が多く存在します。

幕臣は婚姻や養子縁組に際し許可を必要としていました。

伊東万喜の場合、許可を得やすくするために同格の家格にする必要があり養子縁組による家格操作が必要だったのではないかと考えます。

武士の離婚

離婚については庶民の場合には「三行半」(みくだりはん)と呼ばれる離縁状を夫から妻に出す必要がありました。

しかし、武士の離婚は夫婦双方の家の当主から上司に対して離縁届を出すだけで成立しました。

離縁状は必要ありませんでした。

離婚は夫の意思次第だといいますが実際には夫以外の外部の圧力により離婚が行われていたことが少なからずあったようです。

必ずしも妻の側が常に受動的だったとは限らなかったとしています(大竹 1983: 148-51)。 

家を出るー就職

婚姻は女性たちにとっては自分の育った家から出る機会でもありました。

育った家を離れる方法としては婚姻ではなく職業につくという方法もないわけではありません。

武士階級の女性が就くことができ、かつ、自立への道が開かれている正規の職業としては奥女中があげられます。

江戸城や大名屋敷のほか大身の旗本、大名家臣の屋敷では政治や諸儀式を行う〈表〉と家族の生活の場である〈奥〉が分けられていました。

その武家の生活の場である〈奥〉において家族に奉仕する女中を奥女中といいます。

武家への奉公となる奥女中は男性家臣同様に出世の道筋が定められていました。

出自によりお目見え以上にはなれなかったという定めもあきらかにされています。

お目見えとは将軍や大名に直接会えるという資格であり武士にも定められている資格です。

実際には養子縁組という抜け道により武士身分に限らず百姓や町人などの多様な出自の混在する職務でした。

〈奥〉に奉公することは教養や礼儀作法を身につける手段になります。

自身の収入を得ることもでき働き方や能力次第で職階を昇っていくこともできるのです。

女性家臣団という位置づけであったため同じ地位にある男性には劣るものの女性自らが始祖となって家を創設することも可能でした。

このように数は少ないものの武士階級の女性たちの中には家に頼ることなく自ら収入を得ていた女性が存在していました。

家を背負う

武士階級の女性たちは家を出ても生まれ落ちた「家」を背負っているように感じます。

婚姻、奥女中、どちらも実家の家格により婚姻先、就職先が決まりがちです。

そして、離婚すれば実家に戻ります。

取り上げた3人の女性たちにとっては婚家よりも実家の存在が大きいようです。

旗本婦人・伊東万喜は生涯実家に戻ることはなくとも実家を思い続け手紙を書いています。

代官婦人・大場美佐は実家との行き来は盛んで、実弟を養子にして跡取りとしています。

水戸藩士夫人・関口きくは実家の母を長家に引き取り共に暮らしています。

日記や手紙からは子どもたちの幸せと夫の健康を願って母として妻として生活している彼女たちの様子が見えてきます。

彼女たちにとって自身の生まれ落ちた「実家」と自ら育てる「家庭」の存在が大きかったのではないでしょうか。

参考文献:

藪田貫、1990、「近世女性のライフサイクル」『日本女性生活史 3 近世』東京大学出版会、237-71。

大竹秀男、1989、『「家」と女性の歴史』弘文堂。

福田千鶴、2010、「奥女中の世界」藪田貫・柳谷慶子編『〈江戸〉の人と身分4――身分の中の女性』吉川弘文館、162-91。 

柳谷慶子、2014、「武家のジェンダー」大口勇次郎・成田龍一・服藤早苗編『新 体系日本史 9 ジェンダー史』山川出版社、176-219。 

 

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