伊東万喜の手紙

旗本婦人 伊東万喜

伊東万喜の手紙

当人、此上なきよき人、実ていもの 目うへの人さつはり御座なく、男女 つかひ余り余り楽過冥加ニあまり 御先祖様それから御老人様、段々御二方様の御陰と、勿体なく、昼夜存くらしまいらせ候

妻鹿敦子編、2013、『伊東万喜書簡集』精文堂出版:20

夫は堅実でこの上ない良い人で、目上の人は一切無く、下男下女を使い余り余り楽過ぎて冥加に余ります。・・・・こちらは御養母様もなく、目上の者は夫だけで、夫はことのほか実貞者ですので、私の心次第にしてくれます。あまり有り難すぎて勿体なく思っております。 

妻鹿敦子、2011、『武家に嫁いだ女性の手紙――貧乏旗本の江戸暮らし』吉川弘文館:74-5

手紙では、何も苦労なく恵まれているようですが・・・。

会いたい・・・

万喜は美作国勝南群岡村(現在の岡山県)の医師小林令助の長女で、1797(寛政9)年に生まれたと推定されています。

万喜は17歳のとき婚姻のために江戸へ出てから、その後一度も岡山に帰ることがなく両親が訪ねてくることもありませんでした。

両親への思いは強く、詳細な手紙を送り続けました。

びっしり

実家の小林家には万喜の手紙が22通残されています。

当時の通信事情のためか、手紙を送る機会が少ないためか、手紙のひとつひとつが長文で多くの情報が盛り込まれています。

暮らしぶりや状況のみでなく万喜の率直な思いもつづられ、経済的大変さ、寂しさ、子どもの養育に対する不安など感情的なことも多く含まれています。

手紙は料紙の長い辺を半分に折った折り紙形式にして書かれており、広げると上下が向かいあった形になります。

本文が太字で上段と下段に分けて書かれ、尚尚書き(追伸)が再び本文の余白に戻ってびっしり書かれており、一枚の紙になるべく多くの情報をと考えて書かれているのがわかります。

基本は仮名文字使いですが漢字を多用しています。

生まれ育った小林家は

万喜は美作国(現在の岡山県)で生まれ、父・小林令助は、儒学、漢方医学を学び、外科を杉田玄白に学んだという美作では著名な医者であり美作の有力者でもあったようです。

万喜は女性として裁縫はもちろん、四書・小学などの当時は男性が学ぶ儒学も習得していたようで、当時の女性としては高い教育をうけていたと考えられます。

万喜には兄・哲蔵(25歳で死去)隣村に嫁いだ妹・於之恵・父の跡を継いで医者になった弟・強蔵がいました。

17歳 江戸へ

父の兄である耕左衛門(幕臣、お目見え以上かどうかは不明)には子供がおらず、万喜は1813(文化10)年に万喜が推定17歳のとき耕左衛門の養女となるために父に連れられて江戸へ行きます。

耕左衛門は旗本で日光普請役でした。

多くの付け届け(これは武士にとって大きな収入)がある職場で、人との交流が盛んだったようです。

万喜の手紙に登場する「御老人様」とは、耕左衛門のことです。

21歳 婚姻

江戸に出ての最初の婚姻は1817(文化14)年、万喜21歳ごろとされています。

同じく耕左衛門の養子となった下級武士の息子である為作と婚姻。

しかし、1823(文政6)年、夫の為作が突然の病で亡くなります。

そのとき、万喜は27歳、子どもがふたりいました。

34歳 再婚

1829(天保元)年、34歳の年に大番番士・伊東要人と再婚していたと考えられています。

上記の手紙は、再婚後に書かれたものです。

作者の妻鹿敦子は、両親を心配させまいとの配慮もあるのでは・・・としています。(妻鹿、2011:76)

伊東要人は初婚で子どもはいなかったようです。

旗本ですが貰い物の少ない部署で特段の役得(その職についていることによる利益)がなかったようで、経済的にも苦しい様子です。

この役得のあるなしは武士にとって経済的な影響が大変大きかったようです。

万喜も決まった額しか手に入らない生活を嘆いており、送金を願い出た両親に生活難から少しの金額しか送金できないことを詫びています。

夫の伊東要人は、この経済的困窮を補うために節約に励んだようです。

大変な締まり屋で万喜に「恐ろしきほど」と言われています(妻鹿、2011:60)。

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