伊東万喜は17歳で伯父の養女となるために美作(みまさか・現在の岡山県)から江戸に出てきました。
旗本婦人になるために江戸に出てきたわけではなかったのです。
妻鹿敦子、2011、『武家に嫁いだ女性の手紙――貧乏旗本の江戸暮らし』吉川弘文館:24-40
伯父・小林耕左衛門
万喜の江戸での生活を支えたのは伯父であり養父である小林耕左衛門です。
耕左衛門は武士ではなかったのですが・・・。
南北朝期に武士身分であった小林家は関ヶ原の戦いで主君の宇喜多家が滅びたのを機に美作に土着したようです。
作者の妻我(めが)氏は小林家では昔は武士身分だったという意識が代々受け継がれていたのではないかとしています。
耕左衛門は武士身分としての小林家の再興を願っていたのではないかと考察しています。
耕左衛門は美作で代官の手代として採用されたのちに江戸に出て日光普請役を務めます。
日光普請役は多くの付け届けがあり非常に羽振りが良かったようです。
耕左衛門には跡継ぎがなく弟の長女・万喜を故郷の美作から呼び寄せて養子にしました。
前夫・小林為作
万喜と結婚して、ともに耕左衛門の養子になったのが為作です。
万喜は21歳、為作は27歳でした。
為作は杉浦家の長男でした。
為作の父は甲府の勤番同心という最下層の御家人でした。
耕左衛門と為作の父が知り合いだったので縁談が成立したようです。
杉浦家は為作の弟が後を継ぎました。
為作の死
結婚から5年、1823(文政6)年、為作は33歳で亡くなります。
為作は下野国真岡(もうか・現在の栃木県真岡市)で亡くなりました。
万喜は夫の実家・杉浦家宛ての書状を送ります。
「為作が重篤で両親に会いたいと言っている。」
両親は旅手形をもらい甲府を出発しましたが間に合いませんでした。
真岡に到着したのは知らせを受けてから9日後でした。
通夜をして亡骸を寺に葬った後、甲府へ帰りました。
為作は亡くなった後も故郷甲府へ帰ることはできませんでした。
(二宮尊徳と真岡)
1823(文政6)年真岡に二宮尊徳が小田原藩主から派遣されています。
為作が亡くなった年です。
二宮尊徳は真岡で財政再建に努めます。
伯父の手筈
為作が亡くなった時、万喜は27歳、ふたりの子どもは長女5歳、長男3歳でした。
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3人の生活を支えるために力になったのが万喜の伯父である養父の耕左衛門でした。
耕左衛門は万喜に再婚口を見つけます。
それが旗本・伊東要人でした。
前夫・為作が亡くなってから6年ほど経っていました。
この再婚のために万喜を養子縁組させます。
旗本である伊東家との家格の釣り合いをとる為だったと考えられます。
そして、前夫の子・精五郎には武士になるための養子口も用意しました。
これらの伯父の手筈が今後の万喜たち親子の生活を支えていくこととなるのです。
伯父の死
伯父・耕左衛門は万喜が再婚した年に亡くなります。
76歳でした。
ご老人様(耕左衛門のこと)亡き後、何につけても困ることばかりで、申し上げるのもなかなか筆には尽くし難いほどです。ただいまは、私ひとりで子どもたちの教育をしていますが、女のことゆえ行き届かない有様です。末々どのようになるのか案じながら世話をしております。・・・・・
妻鹿敦子、2011、『武家に嫁いだ女性の手紙――貧乏旗本の江戸暮らし』吉川弘文館:38
この頃の両親への手紙には寂しさと心細さからか両親が手紙をくれないことへの恨みつらみなども書いています。
旗本婦人として
万喜は旗本婦人になってすぐに伯父の後ろ盾がない状態になってしまいました。
美作の両親に対しては頼るよりも仕送りをする生活です。
心細い生活の中、大病を患います。
しかし、回復後、旗本・伊東要人の妻として次第に自らの礎を築いていきます。