17歳で故郷の岡山から江戸へ出て再婚を経て旗本婦人になった万喜は実家や両親に対してどのような思いを抱えていたのでしょう。
万喜と実家との関係を探っていきます。
妻鹿敦子、2011、『武家に嫁いだ女性の手紙――貧乏旗本の江戸暮らし』吉川弘文館
万喜の実家
万喜の実家・小林家は戦国大名・宇喜田直家の家臣だったのですが関ヶ原の合戦で宇喜多家が滅亡し武士身分を捨て岡山に土着しました。
小林家にはかって武士身分だったという意識が代々受け継がれていると作者の妻鹿氏は述べています。
実家を離れたのは
万喜が実家を離れ江戸に出たのは伯父の養女になるためでした。
のちの書状で万喜はすぐにまた両親に会えると思っていたと書いています。
しかし、以後両親に会えず、故郷にも帰ることはありませんでした。
出世して幕臣になった伯父は自分の家を万喜とその夫に継がせるつもりでした。
妻鹿氏は伯父は武士身分だった小林家(万喜の実家)の再興を願っていたのだろうとしています。
万喜が27歳の時に最初の夫が二人の子を残し病死してしまいます。
伯父は小林家再興を諦めたのか、万喜を旗本身分の家へ嫁入りさせます。
再婚後、万喜は岡山に戻らなかったことを悔い、両親、特に母親が心配しているのではないか、自分は不孝者だと手紙に書いています。
江戸に出て伯父の養女になって婚姻することは両親も望んでいたはずです。
事情が変わり、旗本婦人として再婚することは伯父の意思に従ったことで里の両親に許可を得た婚姻ではなかったことがわかります。
その後、伯父が亡くなってしまい江戸での身寄りがなくなってしまいます。
そのことで実家の両親に会いたい気持ちは強くなっていったようです。
藩医の娘
万喜の父は18歳で江戸に出て新井白石などに医学を学びました。
万喜が伯父の養女になって江戸に出た数年後に、万喜の父は出石藩(但馬国:現在の兵庫県豊岡市出石町)の藩医になり百姓身分から名字も許され二人扶持の武士になります。
出石騒動
藩医になって2年後、出石藩でお家騒動が起きます。
後継者争いによるお家騒動が9年間続き、解決には幕府が乗り出すことになりました。
その結果、家老だった仙石左京は獄門、出石藩5万8千石から3万石余りに厳封、藩主は謹慎、嫡子は転封という処分が下されます。
万喜の父は家老・仙石左京の側についていたと思われます。
父親の立場を心配した万喜は夫の知り合いに働きかけるなどして、父の立場を救いたいとする手紙を両親へ書いています。
結局、父は藩医の職を失い、武士身分も失いました。
この伊豆市販の事件をきっかけに異例の出世をしたのが川路聖謨です。
万喜の弟
万喜には兄がいましたが万喜が江戸に出た後に25歳の若さで亡くなってしまいます。
弟・強蔵が実家の後継者になりました。
強蔵は父の後を継いで医業を修め多くの門人に教えるなどしていました。
ところが、25歳ごろ精神を病み、完治しないまま39歳で亡くなります。
小林家では病状の進んだ強蔵を軟禁状態にしていた様です。
江戸時代、精神病患者に対する環境は悲惨だったようです。
しかし、強蔵は住居をあてがわれ手厚く家族に看取られていることからして当時としては破格の介護療養を受けていたようです。
万喜は弟の病状を心配すると共に両親、強蔵の妻の苦労を思う手紙や見舞金を送っています。
強蔵が発病した頃、万喜は4番目の子・金之丞を出産しています。
実家のことを心配しつつも万喜も子どもたちの行く末のこと、家計のことなど日々の生活に追われる日々でした。
実家の再興
万喜の実家・小林家は結局、万喜の妹の夫が継ぐことになりました。
安政4(1857)年、万喜は彼らから依頼の手紙を受け取ります。
以前のように出石藩から扶持を受けられるようにして、小袖、裃(かみしも)、帯刀も元の通りになるように願い出て欲しいというものでした。
武士身分を剥奪されたあと、元に戻れるようにとの援助を依頼するものです。
万喜の夫は大番、万喜の養子に行った息子は箱館奉行調役並出役、跡取り息子ももうすぐ番入りができそうで万喜の家が力をつけてきた時期だったと作者・妻鹿氏はしています。
女ゆえ
万喜は実家を援助するために金銭や情報を送ったりしています。
しかし、「女ゆえに」思ったようにできないと嘆いています。
「女ゆえに」遠くの実家に出かけて両親と会えない
「女ゆえに」両親に贈り物をしようと思っても金銭が自由に使えない
女と申す者は、まことに少しのお役にも立てない、まことにまことに悔しく残念
妻鹿敦子、2011、『武家に嫁いだ女性の手紙――貧乏旗本の江戸暮らし』吉川弘文館:185
実家のことを心配しながらも夫や息子に働きかけるのが精一杯で、万喜自身が家を背負って「公」的に行動することはありませんでした。
女性であることへの規制と武家女性であるがゆえの身分や家の重圧は行動への規制となっている・・・逆説的ではあるが、女性としての自我を認識しているからこそ発せられる言葉であると思うと述べています。
狭い範囲のネットワーク
妻鹿氏は旗本・御家人社会は同程度の家格の家同士のものが婚姻関係によって結びついており、狭い範囲の中で親族・婚姻関係が幾重にも張り巡らされたネットワークを持つ社会であったとしています。
ところが万喜は旗本婦人として武士社会に身をおいていますが庶民社会の出身です。
そのため他の旗本・御家人出身の女性に比べると武家社会におけるネットワークが限られています。
また、江戸での親類縁者がほとんどいなかったため心細さもひとしおだったようです。
「近所や親類内の嫁や娘、そのほかでも親兄弟が行き来していることを見聞きするたびに羨ましく思い、懐かしさが込み上がってきます。」
と再婚当初の手紙に記しています。
限られた人々との交流の中で暮らす万喜にとって実家の両親や親類縁者は遠く離れていても大切な人々だったのが伝わってきます。
近しい人々との別れ
弟・強蔵は天保13(1842)年に亡くなっています。
その年、万喜は江戸城からの類焼で焼き出されました。
万喜の父は嘉永4(1851)年、83歳で亡くなりました。
同じ年、万喜の娘・玉が嫁ぎましたが7年後の安政5(1858)年28歳で亡くなっています。
安政6(1859)年、長男・精五郎が40歳でエトロフ島で亡くなります。
万喜は頼りにしていた玉と精五郎の二人を続けて失いました。
それ以後、万喜は手紙を書かなかったのか、万喜の手紙は実家に残っていません。
精五郎が亡くなったのと同じ年に実家を継いでいた妹が59歳で亡くなります。
その2年後、万喜の母が87歳で亡くなりました。
万喜は17歳で江戸に出てから母に一度も会えないままでした。
母の死の半年後、万喜は江戸で亡くなります。
66歳でした。