武士の出世は大変でした。
武士は生まれた家の家格、知行(給与)をそのまま受け継いでいくのが普通です。
江戸時代の官僚制を調べた山本博文氏によると「旗本の中には例外的に出世した例が多くみられるのだが、彼らの出自をみてみると大名の次男、三男だったり親が奉行だったりと元々それなりの家に縁のある人々だった」そうです(山本博文、2014『江戸を読む技法』宝島社:124-46)。
武官と勘定所系
武士の職種は大きく軍事に携わる武官と事務方である勘定所系の二つに分かれます。
戦時だったら必要とされる武官は江戸時代が泰平な時代であったため誰でも務まる職務になっていました。
そのため家格による出世制度が幕末まで維持されました。
いっぽう、勘定所系の武士には能力主義的な出世コースが存在していました。
財政には経験と能力が必要と考えられていたためです。
江戸幕府の支配機構
幕府の支配機構は複雑です。
勘定所系に絞って簡単に示すと、
将軍→老中→勘定奉行と勘定吟味役→軍官・代官→名主以下の村役人
となっていました。
旗本にとって昇進できる最高位は勘定奉行と勘定吟味役です。
家格による出世・勘定奉行
家格による出世が多いとみられるのは勘定奉行です。
勘定奉行就任時の平均年齢は54歳、平均在職期間は5年。
山本氏は、ここまで辿り着けるのは少数の人々で、家格だけではなく才能と上司に認められる運とを持ち合わせている必要があったと述べています。
能力主義による出世・勘定吟味役
勘定吟味役には能力により出世したのでは?と考えられる人が多く見受けられます。
勘定吟味役は大きな権限をもっていました。
勘定奉行であっても勘定吟味役との合意なく財政政策を実行することはできませんでした。
家格が重視される武士社会において、勘定吟味役は特別な役職だったといえます。
超絶出世した武士・川路聖謨
川路聖謨 は豊後(現在の大分県)出身の幕臣です。
江戸時代としては例外的な超絶出世をした武士です。
36歳で勘定吟味役になり、さらに家格が低いにも関わらず52歳で勘定奉行にもなりました。

東洋文化協會 “幕末・明治・大正 回顧八十年史”
父親は各地を流浪したのち日田で代官として召し抱えられた人です。
いつかは江戸に出るという強い思いがあったようで聖謨8歳のときに江戸へ出て御家人株を購入します。
御家人株を購入するには2~3百両が必要でした。
時期によって差はありますが、1両あれば1ヶ月暮らせたといいいますから約20年分の生活費を御家人株購入に充てたことになります。
代官職は金銭的に恵まれていたのですが、聖謨が少年時代を回想して「かなりの赤貧生活だった」としていることから江戸に出るために節約していたと考えられます。
聖謨は江戸で川路家の養子になります。
その後、筆算吟味に及第。
以後順調にごく普通の出世をしていきます。
出世が超絶的になっていくのは但馬出石藩(現在の兵庫県豊岡市)仙石家のお家騒動の処理に派遣されてからです。
騒動を素早く的確に処理して能力を高く評価されたのです。
嘉永5(1852)年には勘定奉行兼海防掛となり,ロシア使節プゥチャーチンと長崎で行った交渉の大役も務めています。
超絶出世の要因
山本氏は川路聖謨の出世の要因として次のことを挙げています。
①能力の証明
筆算吟味の試験に及第したことで能力があるという証明ができたこと。
家格制が維持されていたため試験の成績による順位づけはありませんでした。
成績で登用されることはなく下級武士にとって筆算吟味の試験に及第することは、あくまでも能力の証明でした。
②恩による登用
武士の人材の登用は上の者が能力のある者を見出し抜擢して登用することで行われました。
新たな登用は狭き門でした。
登用された者は数少ない機会に自分を取り立ててくれた上の者に対し強く感謝の念を持ちます。
上の者からすると自らが登用した者に恩を示すことができ、一方で、家格により職についている自らの子弟の将来もそのまま維持できます。
恩による登用は家格を維持していくためのシステムでもあったといえます。
③チャンスを生かす
出世をするには能力があることを見せる場が必要でした。
たまたま訪れたチャンスを生かすことが出世につながるのです。
川路聖謨の場合は仙石家のお家騒動の処理がそのチャンスでした。
また、その時に能力があることを認めてくれる有力者も必要でした。
⑤同僚への気遣い
同僚への気遣いは欠かせませんでした。
家格により代々その職についている者と能力により抜擢された者とが同じ職場にいることになります。
同僚からの嫉妬もあるので足を引っ張られることにもなりかねません。
同僚への気遣いは大変だったようです。
武士にとっての出世
山本氏は武士にとって出世は目的であり、強いていうなら名誉欲でもあったとしています。
いっぽう、出世することで今までよりも重責を担うことになります。
武士としてより大きな奉公を勤めることにもなり、主君の恩に対しても合理的な面があったのです。
出世により武士としての名誉と目的の両方を手に入れることができたのです。
川路聖謨の最期
川路聖謨の最期は幕府の最期と重なります。
川路聖謨は安政5年条約勅許を得るために老中・堀田正睦とともに朝廷工作に赴くが失敗。
井伊直弼が大老になり一橋慶喜の将軍推挙に関与したと疑われ安政の大獄で蟄居させられます。
井伊直弼死後、外国奉行に取り立てられますが体調不良を理由に半年ほどで辞職します。
慶応2(1866)年、中風で半身不随になったのち、明治元(1868)年、江戸城開城の風雪に触れ3月15日(開城は4月21日)に腹を切ったのちピストル自殺(享年68歳)しました。
武士の出世と女性
山本氏は「縁戚に有力者がいる、運良く有力者の知遇を得ることなどは現代の私たちが想像する以上に武士の出世には重要であったと考えられる」としています。
婚姻は家と家の縁を作る機会です。
相手の家が有力者なら出世の大きな武器を手に入れることができます。
女性本人よりも女性の「家」が重視されていく要因だったと考えられます。
武士は地位により細かい定めがあるため役職にふさわしい身なりを整え、定められた人数の家来を雇わなければなりません。
それらを自腹で行うのです。
時代が進むに従い贅沢な品を加えていくようになったり出世しても給与が上がらないこともあるなど、出世しても生活が困窮する状態になることもありました。
出張旅費が払えず娘を遊女家に預けた話も残されています。
武士の出世に果たした女性の役割は大きかったのではないでしょうか。