伊東万喜は再婚後に伊東家の長男・金之丞を40歳で出産しています。
前夫との子・精五郎と違い、金之丞には武士として継ぐことのできる家督と職がありました。
そのため精五郎とは異なる武士の就職過程をたどっています。
金之丞14歳、当10月の学問御吟味(「素読吟味」の間違いと考えられる。)を受験させるつもりで、日々受験に向けて追い込みをかけています。たぶん滞りなく受験できることと楽しみに致しております。
万喜は岡山の実家の両親に宛てた手紙で金之丞の受験について報告しています。
(妻鹿敦子、2011、『武家に嫁いだ女性の手紙――貧乏旗本の江戸暮らし』吉川弘文館:96-103、114-6)
昌平坂学問所
昌平坂学問所は、もともと儒学者として徳川将軍家に仕えた林羅山(はやしらざん)(1583~1657)を祖とする林家の家塾(かじゅく)でしたが、18世紀に行われた「寛政の改革」(1787~1793)によって幕府の官立学校になりました。
学問所では旗本、御家人の子弟を対象として寛政5(1753)年以降、年少者を対象とする「素読吟味」15歳以上を対象とする「学問吟味」の試験が行われていました。
金之丞の受験
金之丞は嘉永2(1849)年11月8日に「素読吟味」の試験を受けています。
受験者は100人ほど。
親の家格を問わず、また次男三男も受験できたようです。
試験は身分の高い者の子弟から順に行われました。
初日はお目見得以上の子弟の試験。
試験期間は4日間。
金之丞は父親が大番でお目見得以上であることから初日に受験しています。
成績と褒美
試験の成績は甲乙丙以下10段階で評価されました。
甲乙丙は及第、それ以下だと落第です。
ご褒美も出ます。
- お目見得以上の子弟 成績優秀者には丹後縞3反 中の成績者へは2反
- お目見得以下の子弟 成績優秀者には銀3枚 中の成績者には2枚
金之丞は一番優秀な甲の成績をとり、丹後縞3反を拝領しています。
金之丞の師匠
金之丞はこの試験のために師匠について準備していました。
昌平坂学問所の儒者・松崎満太郎です。
幕府の外交や開国へ向けて重要な役割を果たした人物です。
松崎満太郎は試験当日の試験官も務めていました。
松崎満太郎は金之丞の試験の様子を「倅は3反に相違ない」と知らせています。
万喜は金之丞の成績が優秀なら就職の時期が早まると期待していました。
知らせを受けて、
「まず、大喜び。外聞もよく大安心いたしました。お喜びくださいませ。」
万喜は大喜びで両親へ報告しています。
武芸の試験
学問で良い成績を収めた後は武芸の見分(けんぶん)です。
弓・馬・鎗・剣などの稽古に早朝から夕刻まで時間を費やし稽古しました。
稽古の道具代、師匠への礼金などの教育費が物入りで困っていると手紙に書いています。
親子勤めを願って
万喜が熱心に金之丞の成績優秀を望んだのは「親子勤め」を願ったからです。
父親の伊東要人が大番の職に就いたままの状態で息子の金之丞が番入りできることを望んでいたのです。
そうなれば伊東家の収入は倍になります。
旗本や御家人の番入り審査は本人の成績とともに父親の勤務状態も考慮されました。
金之丞の番入りが確実に確認できるのは文久元(1861)年、金之丞25歳頃です。
武官である大番ではなく文官である書物御用出役に任じられました。
妻鹿氏は、文久元(1861)年より早期に金之丞が番入りしている可能性を示唆しています。
「勤続20年ルール」というのがあり、父・伊東要人が勤続20年の年に息子・金之丞の番入りの記録があるとしています。
金之丞23歳の頃で昌平坂学問所で初めて試験を受けてから9年後でした。
元にもどる
親子勤めにより倍になった伊東家の収入でしたが、しばらくして、またひとり分の家禄となり元にもどってしまいます。
父親である伊東要人が元治元(1864)年に亡くなったためです。
文久2(1862)年、すでに伊東万喜は先立っていました。