武士の就職・精五郎の場合

旗本婦人 伊東万喜

万喜の前夫との子・精五郎には継ぐべき家も武士として継承できる職もありません。

そのため武士として就職活動を始めてから就職するまで10年以上かかりました。

母親の万喜は精五郎のゆくすえを心配していました。

しかし、その状況は万喜だけではなかったことが手紙からうかがえます。

江戸の男子は同様の状況だったのです。

精五郎も元気に過ごしております。・・・当地(江戸)では男子については殊のほか心配しております。私も会うたびに折々申し聞かせては居ますが、何もできないままで、心の内では心配ばかり、心ならず暮らしております。しかしながら、出来不出来は運しだいと存じ、まずまず日を送っています。 【 妻鹿敦子、2011、『武家に嫁いだ女性の手紙――貧乏旗本の江戸暮らし』吉川弘文館:91−3、104-14】

入れ子になってから

精五郎は御家人・渡辺玄太夫の「入れ子」になり渡辺家の養子ではなく実子になりました。

しかし、そのまま伊東家に嫁いだ母親・万喜のもとで育てられます。

伊東家を出て渡辺家に移ったのは15歳でした。

本郷御弓町の渡辺家の長男の家に同居しました。

そこから実の親となった渡辺玄大夫の勤務していた代官役所に通い実務の習得をしています。

同じ頃、山室家の養子になり家督を継ぎます。

渡辺家の次男としての立場から山室家の家督を引き継ぐ立場になったのです。

山室家は旗本と御家人の中間に位置する家柄で「小普請」でした。

役所での実務習得は山室家の養子になった後も続きました。

運よく「番入り」・30歳

「番入り」とは役職につくことです。

山本博文氏によると番入りが幕臣としての勤務のスタートになります。

番入りできないものを「小普請」といいます。

「小普請」は知行100石につき金1両の小普請金を上納しなければなりません。

無職なのに上納金を取られるので「小普請」のままでいるはずはなく皆が番入りを願うのは当然のことでした。

山本博文、2022『江戸の組織人 現代企業も官僚機構も、全て徳川政府から始まった!』朝日新聞出版朝日新聞出版:29

精五郎は山室家の養子になって家禄を継いだのですが、家禄のみでは生活できないため番入りを願います。

月2回の逢対(おうたい)という上司の就職面接のようなものを受け続けます。

番入りする年齢はまちまちで14、5歳の元服後すぐという者もいましたが、精五郎が番入りできたのは30歳の時でした。

精五郎は番入りより前に22歳頃に婚姻し土地を借りて家を建てています。

「お役に就きたいと、いろいろ稽古事もし、鉄砲などの稽古もして色々物入りで、これらの道具は高く借金も増えたので、この先4、5年は御役に出ることは止めて、家計の立て直しをするように心得て、ろくろく「逢対」にも行かず、内職として書き物などしておりました・・・」

「・・・私も朝夕信心しておりましたが、第一に樹得院様(万喜の養父の戒名)のお陰、神仏様のお陰で思いもよらず、9月29日に「類火之番」(るいかのばん)に、にわかに番入りを仰せつかりました。」

作者の妻鹿氏は、この番入りは万喜の養父がかって世話した者の引き立てによるものだったかもしれないと推察しています。

”第一に樹得院様(万喜の養父の戒名)のお陰”としているからです。

諦めて過ごしていた頃の突然の番入りでした。

その頃、小普請組のうちおよそ200人余りが番入りを願っていましたようです。

その中で運が良い者、金銀を使ったりして特別に目をかけてもらった者のみが番入りできたのです。

「類火之番」

精五郎が仰せつかった「類火之番」は類焼を防ぐための監視を行う仕事でした。

朝出勤して翌日の朝までの24時間勤務です。

勤務明けに一旦帰宅して夜を家で過ごします。

その翌朝また出勤して丸1日勤務です。

新人のうちは2ヶ月ほどそれを続けますが、その後は5日目か7日目の勤務になりました。

出世「箱館奉行調役並出役」

安政4年、精五郎38歳ごろに能力をかわれ出世します。 

箱館奉行調役並出役(はこだてぶぎょうしらべやくなみしゅつやく)になったのです。

安政元年、日露和親条約が結ばれたことにより函館が開港されたことにより新しくできた役でした。

山本博文氏は江戸から離れた幕府直轄都市を管轄する遠国奉行は大名並の格式だったとしています(山本、2022:36−8)。

その遠国奉行である箱館奉行を補佐するのが調役でした。

箱館奉行所 函館市ホームページより

函館へ

7月23日に江戸を出発、8月26日函館に到着しています。

1ヶ月を超える道のりでした。

精五郎夫婦・嫡男16歳・三男9歳・女子4歳がそれぞれ籠に乗っての旅立ちです。

立派なしつらえの旅立ちでした。

次男は江戸に残ったようです。

収入は2倍になりました。

月に3度、母親の万喜に書状とともに干しわらび、昆布、干し鮑などを送っています。

母親の万喜は遠く離れ寂しいが精五郎の生活が経済的に安定したことを喜び、いずれは他の兄弟同様のお目見得以上になることを望んでいます。

ですが・・・。

精五郎の死

函館へ赴任して約1年半後、安政6年4月、精五郎はエトロフで亡くなります。

40歳でした。

万喜は63歳でした。

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