武士社会はピラミッド

武士社会

武士の身分体系は、主君を持たない浪人を別にすると、一番上に将軍がおり、そのすぐ下には一万石以上の領地を与えられた大名、その下には一万石未満の領地や俸禄を与えられた旗本や御家人などの幕臣や大名の家臣たちがいた。

村越一哲、2010、「徳川武士の人口再生産研究――課題と仮設の提示」『文化情報学 駿河台大学文化情報学部紀要』17(2):13-29、

しかし、このピラミッドは、かなり複雑だったのです。

支配する側、される側

村越氏によると、徳川社会は大まかにいえば「士」という支配層と「農工商」という被支配層から成る身分制社会でした。

「士」は領主と官僚という側面を持つものでしたが、本来は武人でした。

その結果、武士は「農工商」を支配すると同時に、武士自らも軍事編成に基づいた身分体系の中にいて支配される側でもあったのです。

官僚兼武人

官僚としての武士は、自らの境地を支配したり、主人の家政や領地の経営にあたっていました。

しかし、戦時には、騎馬や徒士、足軽により編成された隊を率いて指揮するなどの武人としての役割も果たすという面もありました。

徒士(かち)とは馬に乗ることを許されない歩行で戦う武士のことです。

隊は、将軍家臣団、大名家臣団、さらに将軍、大名それぞれの家臣の家臣団などを単位としてそれぞれがピラミッド型の階層構造を持つ個別社会を形成し、さらにそれらが入れ子状に組み合わされて武士社会が成立しているという複雑なものだったのです(村越 2010:13)。

序列が複雑

磯田道史氏は、江戸時代の大名家臣団について研究しています。

磯田氏によると、武士の中には様々な分類があり細かい序列が決まっています。

また、家格により地位や身なり、礼儀もこまかく決められ、上下の関係が厳しく維持されていたとしています。

さらに、それと並行して主君と家臣という意識も維持されていたため実態は複雑でした。

世襲は半数

磯田氏が研究で取り上げた岡山藩・清末藩(現在の山口県下関市清末)・津山藩の武士の構成比は、侍と徒士が約4分の1ずつで、その残りは足軽以下が占めており、武士のおおよそ半分は足軽だったとしています。

武士の半分である侍と徒士は世襲されていき、武士という職業が相続されます。

そして、武士の構成要素の半分である足軽以下は百姓町民からの一代限りの採用でした。

足軽が欠落し、あるいは暇を請えば代わりの者を補充していきます。

足軽の人材はぐるぐると回転しており、足軽以下は兼業的に家臣団に参入してくる存在だったのです(磯田道史、2013、『近世大名家臣団の社会構造』文芸春秋: 452-61)。

女性たちは?

武士階級の女性たちは、当然、武士社会の複雑なピラミッドの中に組み込まれているものと予想されます。

武士階級の女性の実生活は、育った家や嫁いだ家の身分や禄高により大きく異なっていました。

武士には、収入で賄わなければならない身分費用とされる家臣の数、身だしなみ、冠婚葬祭儀礼などが階級により定められていたため、それらを俸給だけで賄うのは困難を伴いました。

身分によっては、たとえ俸給が高くとも武士身分を維持するために貧しい暮らしを強いられる結果となっていた場合もあり、女性の生活もその家の経済状態の影響を受けていました。

福澤諭吉は『旧藩情』で、上層と下層士族の生活差は大きく、下層士族では「衣服は家婦が昼夜の別なく糸を紡ぎ木綿を織る」などしており「理財活計の趣を異とす」と指摘しています(福澤諭吉、1970、「旧藩情」『福澤諭吉全集 第7巻』岩波書店: 268-9)。

さて、実際はどのようなものだったのでしょう。

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