武士階級の女性については、まだわからないことがたくさんあります。
なぜなら、残された資料が少ないからです。
武士社会は身分制社会であったため階級や藩ごとに規則がありました。
したがって、武士階級の女性だからといって一様ではなかったことは確かです。
また、地域によって生活も異なっていたようです。
歴史人口学と宗門改帳
江戸時代のライフコース研究としては歴史人口学による方法があります。
歴史人口学は出生、婚姻、死亡、移動等を記した人口記録を個人の名前を頼りにつなぎあわせて、データベース化して分析する方法です。
江戸時代、徳川幕府が始めたキリシタン禁制のための信仰調査の記録である宗門改帳は1671(寛文11)年から全国で毎年作成することが義務付けられたものでした。
内容的には領民の人口調査であり人別改帳の性格も備えていました。
そのため毎年の家族構成員の名前、年齢、続柄、檀那寺などの情報に加え、出生、死亡、婚姻、奉公などの情報もしばしば記されています。
速水融氏をはじめとして多くの方々が、それらの資料を江戸時代の歴史分析に適用し歴史人口学と家族史の結合を経て多くの研究成果を生み出してきました。
落合恵美子、2006、「序章――徳川日本のライフコース」落合恵美子編『徳川日本のライフコース――歴史人口学との対話』ミネルヴァ書房、1-26。
出生率の地域差
鬼頭宏氏は江戸時代を人口史料の宝島としており『文明としての江戸システム』において、興味深い分析をしています。
その一例ですが、江戸時代の農民社会は現代より多産で子供数が多く、ほとんどの男女が結婚する皆婚傾向が強い社会でした。
しかし結婚年齢と出生率をみると地域差があったことが明らかにされています。
出生率は西日本のほうが東日本より高い傾向が見られます。
このことは女性の初婚年齢と最終出産年齢との関係にも及んでいます。
東日本は早婚で最終出産年齢も低く、西日本は東日本に比べると晩婚の傾向があり最終出産年齢も高いのです。
鬼頭氏は自然条件、生活水準・労働条件などの地域差が女性の妊娠能力に影響していた証であり出生率が高い地域では高年齢まで出産可能だったので晩婚化の傾向があったのだとしています。
女性の晩婚化
江戸時代後半、国全体として女性が3歳ほど晩婚化します。
これは女性が働き手として機織りなどの家内工業に取り組んだり商家や武家に出稼ぎに出た結果でした。
そして離婚も多く再婚もごく普通だったのです。
ただ、現代と違うのは離婚が結婚初期に集中していることです。
婚姻期間20年以上での熟年離婚は、ほとんどありません。
鬼頭宏、2018、「文明としての江戸システム」『日本の歴史 19』講談社:47-64
宗門改帳には武士が含まれない
歴史人口学は、その時代を生きた人々自身さえも意識していなかった時代の法則や規則性という大きな発見をしてきました。
ところが宗門改帳には武士人口が含まれていません。
そのため武士については家譜などの資料を基にして分析が試みられてきました(落合 2006: 16)。
しかし家譜は藩ごとに異なっています。
そのうえ出生、婚姻、死亡などのごく一般的なライフコース上の出来事についてさえも発生年月の記載が行われていないものもあるのです。
そのため武士のライフコースを描き出すのはかなり困難でした。
女性の記録は省略
明治初期の統計によると江戸時代後期の武士人口は200万人。
総人口のおよそ6~7パーセントであったと推計されています。
大名・大名家臣・旗本は、それぞれの出自と系譜が重視されて、幕府や藩庁に系譜(系図)が提出されています。
しかし男系による家の継承を原則とされている武士社会では女性に関する記録はしばしば省略されました(鬼頭、2018:105)。
このように武士階級の女性たちのライフコースを知ることができる資料は極めて少ないのです。