現在の中央区日本橋馬喰町には関東郡代・伊奈家の屋敷(郡代屋敷)がありました。
のちに馬喰町御用屋敷詰代官たちの住まいになりました。


代官の半数が江戸住まい
幕府の管理が厳しくなり地元で代官を受け継ぐ代官の家が処罰され減少していきます。
江戸幕府前期に70〜80 人いた代官は中期以降40人ほどになっていました。
代官は勘定奉行配下の官僚として組み入れられました。
代官は家族を連れて赴任先の陣屋で暮らすのが基本でした。
ところが元禄期以降、関東に任地を持つ代官は赴任先ではなく江戸の住まいで執務にあたるようになります。
関東に支配所がある代官には住まいとなる陣屋がありません。
また、東北、信越に任地を持つ代官は陣屋には下僚を常駐させ検見のときだけ数週間陣屋へ行くという形態をとりました。
現地との連絡には飛脚を利用しました。
約20人ほどの代官が江戸住まいで執務にあたっていました。
江戸暮らしの代官は忙しい
江戸にいたから楽かというと地方の陣屋に暮らしている代官より忙しかったようです。
江戸住まいの代官は自身が担当する幕府領の管理に加えて江戸城に勤務する武士としての役割も果たしていました。
二重の責務で彼らの業務は広範囲に及びました。
休みは年間19日
西沢淳男氏は江戸に居住する馬喰町御用屋敷詰代官であった竹垣直道の日記を主な資料として、彼らの生活の様子を詳細に描写しています。
馬喰町御用屋敷詰代官とは、関東郡代・伊奈家の屋敷跡に入り、伊奈家の支配地を引き継いだ5名(後に3名)の代官を指します。
1850年(嘉永3年)の竹垣直道の年間勤務を見てみましょう:
・代官所での通常勤務 277日
・江戸城への出勤 30日(年始の挨拶や、土地の管理、鷹狩りに関する報告など)
・勘定所への出勤 65日(毎月の報告や年末の決算処理など)
・鷹野役所での勤務 17日(将軍の鷹狩りの準備と見回り)
・地域への出張 32日(2月、5月、7月はゼロ 9月は12日)
現代の労働基準法で定められている休日の最低ラインが105日であることから考えるとかなりの忙しさです。
年間の休日はわずか19日でした。
勤務時間6時間
通常、老中の城内での勤務は四つ時(午前10時ごろ)に出勤して八つ時(午後2時ごろ)に帰宅。
1日の勤務時間は昼食を含め6時間です。
西沢氏は代官たちの勤務時間はこれより長かったのではないかとしています。
住まい

歌川広重 名所江戸百景 馬喰町初音の馬場
馬喰町は奥州街道の出発地で問屋街が近く旅人宿や公事宿
(訴訟や裁判のために江戸に出てきた人を宿泊させる宿)が多く賑わったそうです。
御用屋敷には代官3名のそれぞれの役宅、役所と白洲、鷹場の維持管理をする鷹野役所、公金貸付を行う貸付役所、下僚たちの長屋が複数ありました。
馬喰町御用屋敷詰代官・竹垣直道は本所亀沢町(東京都墨田区)にある拝領屋敷で代々暮らしていましたが、馬喰町御用屋敷詰代官になった際に馬喰町へ家族と共に転居しています。
本所亀沢町の自分の屋敷はも時々出かけていたようです。
地方出張の土産物
江戸在住の代官は秋に支配所を検見に出かけます。
検見に行った際は江戸にいる親類・同僚・上司への土産を用意します。
竹垣直道も初めての検見先で土産を用意し関係先へ配っています。
用意した土産物は
- 鯖干物生 202枚
- 同カタキ 150枚
- イワシ目指し30枚
- カマス 200枚
- 梨 60(梨代九百文:計算サイト換算でするとおよそ22000円くらい)
買い入れの記録があるのは梨のみです。
あとの品々は村々からの献上品だったのか買い入れかは不明です。
土産物が卵や木綿、そばだったこともあります。
卵だけでも概算で500から600個は配っているようで大変な数です。
江戸在住の代官は日々農民と接触するというよりは秋の検見ごろを除き代官仲間や勘定所その他の役人たちとの交際、人脈の構築に日々費やしていたといえる。
「代官の日常生活 江戸の中間管理職」202-3
人脈構築は情報収集のためだけではなく、その後の出世、婚姻・縁組にもつながるものでした。
代官仲間同士の相互扶助もその一環でした。
出張先から持ち帰る土産物の多さに人脈作りの重要度が現れているようです。
参考文献:西沢淳夫、「代官の日常生活 江戸の中間管理職」(角川ソフィア文庫)。
