「入れ子」は、他人の家に育った子を養子ではなくその家の実子として届け出ることです。
再婚して旗本婦人となった伊東万喜。
亡くなった前夫との子である長男・精五郎は万喜の再婚先である伊東家の籍に入らず渡辺家の「入れ子」を経て山室家の養子になりました。
【 妻鹿敦子、2011、『武家に嫁いだ女性の手紙――貧乏旗本の江戸暮らし』吉川弘文館:80−90、104-14】
weblio辞書では「入れ子」とひくと次の2つの意味も出てきます。
1 同形で大きさの異なる器物をを順に組み入れるように作ったもの。
2 比喩として外部に現れない話。
・・・何やら秘密めいています。
「入れ子」は処罰対象
「入れ子」は見つかると受け入れた側、入れ子になった側の双方が刑に処されました。
戸籍を偽ることになるからです。
江戸時代前期は島流しにされました。
後期には死罪とさらに厳しくなりました。
「入れ子」は容易
ところが「入れ子」にするのは難しくありません。
当時は幼児の死亡率が高かったからです。
出生届を出してすぐに死亡届の手続きをするのが面倒だったため子どもが産まれてすぐに出生届を出すことはありませんでした。
出生届を提出するのは子どもがかなり成長してからでした。
そのため他家に生まれて成長した子を実子として届け出るのは容易だったのです。
「入れ子」になる必要性
精五郎はなぜ最初に養子ではなく「入れ子」になったのでしょう?
作者の妻鹿氏は家柄の釣り合いを整えるためであろうとしています。
幕府は家臣の家族関係を管理していました。
養子については親戚であること、身分相応であることという取り決めがありました。
また、幕臣以外からの養子は認められていませんでした。
精五郎は、まず初めに代官手付けだった渡辺家の「入れ子」になり幕臣の身分を得ます。
その後さらに渡辺家より身分の高い幕臣・山室家の養子になりました。
幕臣同士の養子縁組という条件を整えるために「入れ子」になる必要があったのです。
多額の持参金
「入れ子」にしてもらうためには多額の持参金が必要でした。
厳罰に処されるおそれがあるからです。
また、持参金は御家人の地位によってその相場が異なっていました。
高い身分の家になるほど高額の持参金が必要でした。
その後の精五郎
精五郎は「入れ子」になった後もそのまま伊東家の万喜のもとで育てられます。
伊東家を出て「入れ子」先の渡辺家に移ったのは15歳でした。
渡辺家から役所に通い実践的な実務の習得をしています。
役所での実務習得は山室家の養子になった後も続きました。
「入れ子」は金銭対象
精五郎の養子縁組の経緯から「入れ子」が金銭対象になっていたことがわかります。
養子縁組は「家」を相続して継続するという目的ではなく幕臣の身分を得るために行われています。
また「入れ子」が正式な養子縁組ができない場合の前段階だということもわかります。
「入れ子」は幕臣の家に生まれなかった者が幕臣の身分をを得るための手段だったのです。
幕府はこれを取り締まるために「入れ子」を死罪という重い罰に処しました。
それでも「入れ子」は密かに行われ続けたのです。