暑中見舞い

彦根藩世田谷領代官の妻 大場美佐

大場美佐の日記

安政七(万延元)年六月四日朝薄くもり天気

一御屋敷へ暑中見舞い御出被成、友御供の事、夜入御帰り、福田へ御出の事、

(世田谷区、2013、『大場美佐の日記』(復刻版):16)

万延元(1860)年6月4日 新暦の7月半ば頃です。

暑中見舞にでかけたのは美佐ではなく夫の与一です。

美佐の日記は大場家の当主であり世田谷領の代官である夫・与一の行動を主として記録しています。

友というのはおともとして与一と一緒にでかけた人です。

武士は身分によりますが、ひとりで出かけることはなく、おともの者を伴って行動しなければならなかったようです。

お屋敷から帰宅後、親戚の福田の家にも出かけました。

世田谷は彦根藩の賄領

大場美佐が暮らした世田谷は、彦根藩(現在の滋賀県彦根市)の賄領でした。

江戸での大名の暮らしには大名だけではなく多くの家来などを伴っており、その人々の暮らしのために食料、燃料、衣料など多くの物資を必要としていました。

それらを国元から取り寄せていたのでは、大変な費用と労力を伴います。

賄領とは大名の江戸暮らしの出費を賄うために江戸幕府から支給される藩地とは別の江戸周辺における領地です。

彦根藩の賄領は、世田谷の他に下野国佐野(栃木県)にもありました。

井伊家

彦根藩の当主である井伊家は幕閣であり、譜代の筆頭でした。

彦根藩の石高は30万石で幕府からの預かり蔵米5万俵を有しており、家格も際立って高い幕府の重鎮でした。

(日記の書かれた安政7年に起きた桜田門外の変のお沙汰により10万石減らされています。)

井伊家は武士社会ピラミッドのかなり上にいたといえます。

すべての藩が江戸に賄領を持てるわけではないことから、井伊家が幕府からいかに重く見られていたかがわかります。

代官の仕事

彦根藩の賄領である世田谷の代官の最も重要な仕事は年貢の収納に関することだったようです。

また、事あるごとに人足や物資を藩の指示で集める必要があり、農民にも直接関わっていかねばならない立場であったと考えられます。

彦根藩は、幕府の命により、頻発する外国船来航に備えるため1847(弘化4)年から7年間、相州警衛(相模国三浦半島)の任についています。

この警備にあたるために、世田谷領は御用荷物輸送のための人馬差出を一手に引き受けることとなり、多くの人員と馬が動員されています。

農民に対し賃金が支払われたのですが、負担が大きく1848(嘉永元)年に名主らが賃金値上げを彦根藩に願い出た記録が残っています(世田谷区、2012、『幕末維新-近代世田谷の夜明け』: 106-8)。

代官は、このようなときに世話人に指示して人馬を集めるのも仕事でした。

彦根藩江戸屋敷

江戸時代の大名は江戸屋敷として幕府から上屋敷、中屋敷、下屋敷など3つ以上の地所を拝領し、建物は大名側が建設しました。

上屋敷は江戸城近くで殿様が住み、中屋敷は少し離れた場所にあり隠居した殿様や世継ぎが住み、下屋敷は上屋敷、中屋敷が火事などにあった場合の避難所であり生活必要物資の保管場所でもあるという具合に住み分けがされていました。

彦根藩の場合、彦根城博物館ホームページでは井伊家の上屋敷は桜田(現在の憲政記念館)、中屋敷は赤坂(現在のホテルニューオータニ)、下屋敷は千駄ヶ谷(現在の明治神宮)と早稲田、蔵屋敷は八丁堀にあったとしています(2021/08/01)。

検索してみると世田谷代官屋敷から徒歩で彦根藩上屋敷まで2時間半ほど、千駄ヶ谷の下屋敷までが1時間半ほどです。

当時の事であり、昼頃から世田谷を出た日は泊りになっていることが多くあります。

代官屋敷は職場兼住居

代官としての与一は上屋敷や中屋敷に届け物をしたり、呼び出されて出かけていきます。

使いの者に届け物を持って行かせることもあったようです。

また、彦根藩の奉行が用事のある時に代官屋敷に来て、泊まっていったり食事をしたりしたという記録もあります。

代官屋敷は大場家の住まいであると同時に彦根藩の出張所のような場所だったのです。

世田谷代官屋敷の縁側

美佐は、この屋敷に住み、与一の出入りを見守り、屋敷にきた人々のこと、物の出入りを記録しました。

暑中見舞いろいろ

暑中見舞いは続きます。

5日は美佐の実家へ暑中見舞いに使いの者を出し、

6日は上野毛村から暑中見舞いに菓子折りが届き、

9日は医者の了貞殿が暑中見舞いとして白玉粉を持参、

10日はのら田、大くら、下の毛、小山の各村から暑中見舞いに来ます。

14日は与一が親戚の原殿へ友をつれて暑中見舞いに出かけていき、菓子折り一、直し五合、半紙十帖、うとん粉一重あげています。与一は伊豆やへ泊まり、友だけが帰ってきます。

翌15日、友は与一を迎えに行き、「夕方旦那御帰り篭て、」 親戚の福田から暑中の使いがさとふ漬一折持ってきます。

16日、「豪徳寺へ暑中見舞に真菜(桑)瓜十五送る、」

18日、紋(使いの者)が日本橋へ暑中見舞いの使いに出ています。

「暑中見舞い」と記してあるものだけを取り上げてもこれだけあります。

この時期は人の出入り、物の出入りが頻繁です。