七夕

彦根藩世田谷領代官の妻 大場美佐

大場美佐日記 

安政七年(万延元年)七月七日天気少々雲出ル

一七夕様へ例年之通り御備へ、村々名主・年寄御年貢納、上の毛より唐なす五、六左衛門よりどせう・ほうき弐本到来、八幡様御部や御三人殿御参詣の事、夕方浅次郎出酒盛始る、

(世田谷区、2013、『大場美佐の日記』(復刻版):19)

例年通り七夕さまへお供えをしています。

村の代表者である名主や年寄連中がこの日年貢を納めに来ました。

上野毛村から唐茄子五つ,六左衛門からは、どじょうとほうき二本をもらっています。

夫の母、義母、夫の姉の3人が八幡様へ参詣にでかけ、夕方は浅次郎が酒を持ってきて夫・与一と酒盛りが始まりました。

例年之通り

美佐が日記を書き始めた年、1860(安政7)年の日記を中心にエクセルに入力して分析してみました。

特徴的な単語が何回登場するかを調べることにより、美佐がどのような生活をしていたかが見えてくるのではないかと考えたためです。

「例年之通り」「例の通り」が安政7年の一年間で28回出てきます。

美佐が「例年通り」と記している日付は1月7日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日の五節句にあたる日です。

陶智子によると、五節句は幕府が定めたものです。

中国から伝来した節句や節会をもとにしており奈良時代からの伝統であったといいいます。

(陶智子、1998、『江戸の女性ーしつけ・結婚・食事・占いー』新典社 :43)

ほかに11月15日も「例年之通り」と記しており、毎年、夫・与一の誕生祝をしています。

初秋の行事・七夕

俳句では「七夕」は秋の季語です。

例年通りに行われていた行事のひとつが七夕です。

旧暦の七月七日は新暦では年によって異なりますが8月半ば頃になります。

七夕は五節句のひとつであり秋の初めの行事でした。

浮世絵にみる七夕祭

歌川広重の『市中繁栄七夕祭』

図のように江戸市中では、短冊竹(七夕の短冊を飾るのに用いる竹)を屋根より高く立てました。

天保(1831~1845)ごろにはひと目をひくような細工物を多くつけるようになります。

数珠状につなげたほおずきや紙で作った硯や筆、スイカ、大福帳などをつり下げました。

また、七夕の日には邪気を払うためにそうめんを食べる習慣がありました。

(土屋ゆふ、2021、『江戸の暮らしと二十四節気』出版芸術社:152-3)

奥村政信の七夕の図では、そうめんらしきものがそなえてあります。

七夕
奥村政信 『絵本小倉錦』1740年

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大場家の七夕

大場家の七夕は新小麦、新小豆とこの季節の収穫物をお供えしています。

大場弥十郎著の『家例年中行事』によると

前日六日

机、硯を清めて色紙・短冊をこしらえ詩歌を書きます。

茅(ちがや)で牛、馬を一匹ずつ作り、縄をなっておきます。

短冊竹は新しく生竹を伐採します。

左右に二本竹を立て、縄を張り、この縄に作った牛と馬をつり下げます。

七日

朝、新小麦で団子をこしらえ、新小豆を添えて八寸に盛り、お酒とともに二星(牽牛・織女のことと考えられる)へお供えします。

お供えするために二本の竹のもとに四斗樽を置きその上へ清浄にした小板を一枚のせて台にします。

右に団子・お神酒を共に備えます。

夕飯は、なす・さしみ、なまりぶし、ささげ、香物、汁、飯と記載があります。

弥十郎は身内だけのお祝いごととして行うようにと指示しています。

(世田谷区、1958、『世田谷区史料 第一集』:235)

お盆の用意も同時進行

『家例年中行事』では 七夕の日にお盆の品物をいろいろ準備しています。

使用人たちへの衣服(お仕着せ)とお盆を迎えるための用品チェックです。

御仏前、素焼きの皿、おがら、盛り菓子、お香、線香、ござ、行灯、燈芯など。

数量と金額も記録してあります。

10日、夫・与一は豪徳寺に詰めており、「例年通り」留所料理方へ酒を届けています。

(世田谷区、2013、『大場美佐の日記』(復刻版):30)

豪農出身の代官

大場家は彦根藩の世田谷領代官となる前は地元の豪農(富裕な農家)でした。

世田谷代官となってからも農家としての年中行事が続けられていたと考えられます。

夫・大場与一の祖父・弥十郎が残した『家例年中行事』には年中行事や神事、供え物、季節の着物、下々への祝儀の額まで記録されています。

美佐の日記では正月の吉例に始まり、親戚との年始、盆暮れのやりとり、神社や寺との交際も盛んです。

おそらく、弥十郎が行っていたものと同様のやり方を夫・与一も行っており、美佐はそれを手伝っていたのでしょう。

季節の行事や祭祀、農作業に関連した作業や祭りごとが多く、「例年之通り」と家法に従っている様子です。

天気を細々と記録し自然とともに暮らしていた様子もうかがえます。

訪ねてくる人も多く、地域に根づいていた大場家の日常が見えてきます。

美佐は武士の妻であると同時に、農家としての慣習も守っていたのです。

夏成

夏成は夏に納める畑の年貢のことです。

金銭で納入されるのが基本でした。

(国税庁ホームページ NETWORK租税史料 江戸時代の年貢の納期と領収書)

名主たちがもってきたのは、夏成だと考えられます。

七夕は夏の収穫物の総決算の時期でした。

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