『武家の女性』衣・食・住

水戸藩下級武士の妻 関口きく

『武家の女性』関口きく

きくは畑の世話が好きで、たすき掛け、おしりばしょりになって、はだしで鍬くわを持ち、手作りの茄子や胡瓜を食膳にも載せ、人にも分けるのを楽しみにしていました。

山川菊栄、2019、『武家の女性』岩波書店:27

武士の妻自らが畑の世話をしています。

『武家の女性』から江戸時代末期、水戸藩の武士で家塾を開いていた青山延寿の妻、関口きくの衣・食・住を抜き出してみます。

衣生活

きくは、一日中ほとんど着物の製作に時間を費やしており、糸くり、縫物、機織りをしていました。

しかし、豊かになるにしたがって自分で機織りをすることはなくなり外注となっていきます。

機織りは貧しい武士の妻や娘たちの内職になっていました。

水戸藩士約千人のうち百石以下が七百人。

この百石以下の平士は内職が許されていました。

禄だけで生活できない家は家族総出で内職をしました。

服装の制限が厳しく着物といえば木綿でした。

平士以上でないと下着や帯には絹を使用できないとされていました。

そのため男も女も着ているもので身分がわかりました。

きくは前年の夏までに糸を染めに出し毎年お正月には新しい着物を着せていました。

色や縞の配合がたいそう上手で子どもたちの着物はよくよそでほめられました。

外で買う場合のみ赤い色がはいりました。

買うことはまずなかったので、大人も子どもも皆黒っぽい色の縞木綿ばかり着ていました。

食生活

食べ物は、肉類はもちろん使わず、魚は地元のものだけです。

鰹や鰯、鮭や鰻、鮎がありました。

魚は肴売りがきました。

塾に弟子入りがあるともらったりすることもありました。

鶏は戸袋の外の高いところに長細い篭を打ち付けてあり、そのなかで3羽ほど飼っていました。

玉子、鶏肉は時々しか食べません。

果物の品質は落ちますが、桃、柿、梨があり、小さなミカンも食べました。

菓子というのは珍しく、おやつはさつま芋、かき餅でした。

砂糖といえば黒砂糖です。

正月などに土鍋にぐつぐつ煮溶かし餅を入れ黄な粉をかけて食べます。

たいそうおいしかったようです。

白砂糖は大身のお弟子から盆暮れに少々もらうぐらいでした。

おはぎやだんごにふりかけて食べます。

近所の子に食べさせたら甘い塩だと思ったくらいに珍しいものだったようです。

朝は味噌汁と漬物、昼は野菜の煮つけ、夜は味噌汁に肴がつきました。

きくは酒飲みだったので毎日晩酌に一本ずつつけます。

きくは野菜嫌いでご馳走好き、お膳の上を賑やかにするのでした。

主人と奉公人が同じものを食べました。

しかし、家によっては主人だけ特別のお膳だったりします。

また、きくの家では両親と子どもそろって談笑しながら食事をしますが、男女親子によって食物や席を異にするのは家々によるものだったようです。

味噌は一年分を一度に仕込み、漬物を幾通りか漬け込んでおきました。

野菜は家の畑で育てます。

夏には青紫蘇の葉を毎朝早いうちに柔らかい若い葉をつんで塩漬けにして重ねていきます。

青紫蘇の実は干して虫除をしたあと塩漬けにします。

山川菊栄は、年中ほとんど同じ材料で、しきたり通りにやるので食物については今ほど技術もいらず苦心もしなかったと思われるが、それでも、あるものを充分に利用するのは大変なことで、型通りすればよいだけだとしても手と身体を動かすことが必要だったとしています(山川、2019:78)。

ご祝儀や法事も全部家でやるので十人前、二十人前の膳碗が用意してありました。

手伝いには元の奉公人などの出入りの女たちが来ます。

婚礼などでは料理屋から料理人を呼ぶという家もあったようです。

すまい

住居の敷地は藩から賜りますが、家は銘々で建て修繕改築の費用は自分で出さねばなりません。

武士の貧乏がひどくなった幕末にはどこも古びて薄暗い感じがしていました。

きくの夫は結婚後も主君の斉昭が蟄居させられたりしていた関係からなかなか屋敷を賜ることができませんでした。

江戸勤めの人の留守宅や友人の屋敷に同居したりしていました。

その後、本家の隣の屋敷を借りて住んでいましたが、しばらくして屋敷を賜りました。

その賜った屋敷と交換することで、本家の隣にそのまま住みつづけました。

玄関、内玄関、大小8室、金魚池3(金魚は夫・延寿の趣味でした)、垣根の外は菜園、裏に回ると鳥居、竹やぶがあって隣の家とつながっていました。

財産と家具

夫の財産は甲冑と大小の刀でした。

きくの財産は古い着物と桐の箪笥です。

着物は簡単に新調できるものではないため良い着物は着ないで大事にしておき娘や孫に残しておきました。

家にある家具は机と本箱と寝具です。

座ぶとんはありませんでした。

座敷の長押には上に主人の槍、下には主婦の薙刀なぎなたがかかっていました。

きくの少女時代は当時水戸藩主の斉昭が藩政改革をしていた頃でした。

娘たちは琴や生花、茶の湯等を禁ぜられ、薙刀と裁縫や機織り等を学ぶように命ぜられました。

何しろ十四、五で嫁入りする時代のことなので、何でも本格的に修行する暇はなく、実用にならぬ薙刀の稽古などは形式に留まっていたようです(山川、2019:27) 。

その頃の夫・延寿の俸給で借金のない家はなかったそうです。

きくの没後、延寿はその碑文の中に、きくがたいそう働き手で経済上手だったため、誰も自分の家がそんなに楽でないと思うものはなかったと書いています。

山川菊栄、2019、『 武家の女性』岩波書店 :27

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