烈公の偕楽園建設

水戸藩下級武士の妻 関口きく

偕楽園の梅は百余種、数千株に及び、諸大名からの寄附もあった。平時は花を楽しみ、戦時は梅干しを軍隊に供することを斉昭は目がけたものだが、花はたしかに幾代にもわたって万人の目を楽しませている。が、梅干しの方はというと、

「烈公さまは攘夷の戦争に役立てるをつもりでしたろうが、子年のおさわぎで、内輪同士の殺し合いの方に役に立ちました。」と故老は苦笑した。

天保12から3年にかけての大事業で金と労役の負担にあえぐ民衆の嘆きの声は街にも村にも満ちたと言う。

( 山川菊栄、1991、『覚書 幕末の水戸藩』岩波書店:65)

偕楽園建設

偕楽園は水戸藩9代藩主・斉昭の案で建設されました。

斉昭は節倹令によって70歳以下の武家の男女の綿服専用、芝居見物、茶の湯、生花、音楽の禁止など日常生活の細かなことを規制します。

日常の趣味娯楽を禁じたため、その代わりに皆で楽しめる場所をと考え偕楽園を設置したようです。

この大土木工事に周囲の者は大反対でした。

台風や大飢饉の後で人々が疲弊しきっており、そのうえ負担となる不要不急の工事をすべきではないというのが理由です。

斉昭は独断でおしきってしまったのでした。

お借り上げ

天保10(1839)年に藩校・弘道館、偕楽園、好文亭の造営が始まります。

その結果、その年の12月に向こう3ヵ年100石以上半地お借り上げの令が出ます。

藩士に対する借金です。

お借り上げとはいえ、返済してもらえることはなく取られっぱなしです。

藩士たちの禄はそれまでの半分となりました。

既損令

飢饉がひどく疲弊しきっている時期のことでお借り上げの評判がよくありませんでした。

半年後の翌年6月お借り上げをやめ、棄損令を出します。

藩が藩士に貸し出している金穀を全部帳消しにするというものです。

もともと藩から貸し出された金穀を返済できる藩士はいませんでした。

したがって、藩にとっては実質上の痛手がない政策でした。

無利息永年譜

棄損令が出たことを口実に藩士の個人相手の借金が無利息永年譜とされました。

これにより藩士が豪農や商人から借りていた借金が帳消しになったのです。

武士に金穀を貸し出していたのは豪農や商人です。

借金帳消しにより被害を被った商人、農家の非難は斉昭に向けられます。

斉昭の藩政改革

斉昭は様々な改革を実行します。

経費節減のために江戸常駐の藩士約100戸、家族ともで5,600名を水戸に帰します。

武士は指導的地位にあるとして特に質素倹約を厳守することを強制されました。

町人に対してはゆるかったようです。

それでも街全体が倹約ムードに沈みました。

そのほか財務整理、検地、教育振興(弘道館、諸郷校の設置)、孤独の老幼、多子家庭の扶助、北地開拓、常平倉とヒエ倉の充実、仏教排撃と神儒による思想統一などの藩政改革に手をつけました。

「烈公」斉昭

「烈公」は水戸藩9代藩主・徳川斉昭の諡おくりなです。

諡は貴人や高徳の人の死後につける称号で、性質や行いに基づいてつけらるものです。

「烈公」となったのは性格の激しさとする説、藩政・国政の両方に激しく熱心に取り組んだからとする説があります。

「烈公」の肖像画

『水戸烈公肖像』(京都大学附属図書館所蔵)

このえぼし姿の烈公像は、関口きくの夫・青山延寿の甥である青山勇が明治20年頃に画家に頼んで書いてもらったものだとか。

烈公を見知っている幾人もの意見を入れてモンタージュ像として仕上げたものだそうです。

この肖像画を見た貞芳院(烈公夫人・御簾中さま)は「これはまた大そうお立派な若殿様ですこと」と笑われたそうです。

( 山川菊栄、1991、『覚書 幕末の水戸藩』岩波書店:172-3)

タイトルとURLをコピーしました