親戚との関係

彦根藩世田谷領代官の妻 大場美佐

大場美佐の日記には主として天気と代官屋敷に出入りする人や物が記録されています。

感情的なことは一切書いていません。

代官屋敷は彦根藩世田谷領の役所であり大場家の住居でもありました。

そのため日記から大場家の親戚との関係も見えてきます。

兄・千葉氏

最も登場回数が多い親戚は与一の三番目の兄・四谷大番与力の千葉氏です。

日記では四谷または千葉と記されています。

安政7年の美佐の日記に登場する回数は96回。

千葉氏本人が登場する回数は数回ですが千葉家との物のやりとりは盛んです。

出火、暑中、寒中見舞いのやり取り、そして桜田門外ノ変の折にも見舞が届きます。

そのほか品々のおすそ分けで大場家に使いの者が出入りしています。

使いの多くは千葉家の使用人「竹」が担っています。

また、与一の母・御母殿は千葉氏のところへ度々泊まりで出かけています。

大場家当主は四男

美佐の夫・与一は大場家の四男です。

与一は初めは大場家四郎(倭衛四郎とも)と称していました。

与一の長兄と次兄は早くに亡くなっています。

安政3(1856)年・代官役見習いを務めていた時に与一と改名します。

三番目の兄・千葉氏は天保15(1844)年、与一が代官見習いになる前に大場家を出て四谷大番与力千葉氏の婿養子になっていました。

大場家と代官職を継いだのは長兄ではありませんでした。

弟・福田氏

与一の弟・貞五郎は四ツ谷左門町大番組与力福田氏の継嗣になりました。

安政7(1860)年の日記で福田の名前の登場は28回。

安政7年10月22日に前日に福田家で出産があったことを知らせる手紙が兄の千葉氏から届きます。

翌日、美佐はお祝いに籠で出かけています。

その帰りには千葉に立ち寄っています。

千葉氏は大場家を出ていますが兄弟の中心人物であった様です。

妹・多賀

与一の妹・多賀は青山廿騎町百人組与力・原右次郎の妻です。

青山廿騎町は現在の青山4丁目あたりです。

日記では原または青山と書かれています。

安政7年の日記に原・青山の名前の登場は44回。

 閏月3月9日 原右次郎様御出被成候事

 12月19日  原右次郎様御出のかこんぶ巻到来

とフルネームで記されている日があります。

11月21日 原にて着帯に付岩田帯・桃白もめん・肴代百疋祝遣ス

レファレンス協同データによると”肴代百疋”は現代の3〜5千円ぐらいでしょうか。

金銭とともに懐妊のお祝いの品々を届けました。

御母殿

御母殿は夫・与一、千葉氏、福田氏、多賀たち兄妹の母です。

御母殿は安政7年の日記によると千葉氏の所へ度々出かけています。

どこかへ行った帰りに寄ったりすることもあります。

泊まりのことが多く帰りは籠にのって帰ることも。

御母殿は水天宮、こんぴら様、八幡様、そしてお悔やみにも出かけています。

持病があるのか年末には少し寝込んでしまいました。

2年後の文久2(1862)年2月24日に御母殿は千葉氏の屋敷で倒れます。

そのためか美佐はその後千葉家を何度か訪れています。

4月14日、御母殿をお迎えのつもりで準備していました。

ところが夫・与一に仕事が入り延期になります。

結局、2日後の4月16日に御母殿を釣り台に乗せ四谷の千葉家から世田谷の代官屋敷に連れ戻っています。

御母殿千葉ゟつり台ニて御帰り、人足二人頼、城悦・千葉氏鋏太郎・滝・おミさ・おあき・おりせ御供致候事、城悦一夜泊り、

世田谷区、2013、『大場美佐の日記』(復刻版):85
https://kotobank.jp/word/%E9%87%A3%E5%8F%B0-572845 コトバンク:釣り台画像

人足を2人雇い、美佐も付き添って代官屋敷に戻ってきました。

夫・与一は同行していないようです。

御母殿は翌年正月8日に亡くなりました。

69歳でした。

参考文献:世田谷区、2013、『大場美佐の日記』(復刻版)

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