『武家の女性』関口きく

水戸藩下級武士の妻 関口きく

『武家の女性』関口きく

朝のきまった用事がすむと、主婦は縫いもの、糸くり、機おりなどにかかります。水戸のころを思うとすぐ、ビーンビーンと単調な音をたててまわる車の前で、いつも糸をひいていた母親の姿が目の前に浮ぶ・・・

(山川菊栄、2019、『武家の女性』岩波書店:22)

長女・千世の母親・関口きくに対する印象です。

『武家の女性』

『武家の女性』は山川菊栄が母親の少女時代の思い出話をもとに書いたものです。

山川菊栄は女性解放思想家・社会主義者の第一人者です。

敗戦後の婦人少年局長時代の四年近くを除き、終始在野にあって体制批判、資本主義批判の筆を振るった評論家・運動家でした。

(鈴木裕子、2014、「解説」『おんな二代の記』岩波書店419-59)

山川菊栄は関口きくの孫です。

青山家系図では「青山きく」ではなく「関口きく」となっています (山川、2019:10) 。

関口きく ー 青山千世(きくの第2子)ー 山川菊栄(千世の第3子)

関口きくのライフコースを『武家の女性』からひろっていきます。

武家出身

きくの実家は関口という馬術指南の二百石どりの水戸藩の武士でした。

生母は水戸下谷の大きな菓子問屋の娘です。

後妻として関口家に入り、きくと妹をうみました。

きくの生母は町家出身という理由から正妻とは認められせんでした。

妻でありながら「お部屋」とよばれます。

武士である夫や子どもとは主従という関係におかれていました。

きくの父が亡くなった後、当主となったのは先妻の子でした。

きくの生母は離別され関口家を出されます。

きくと妹はそのまま関口家に残され生母と別れて育ちました。

関口家の家事の面倒を見ていた女性が大変厳しい人でした。

『武家の女性』では「鬼婆さん」とされています。

きくと妹は 「鬼婆さん」 にきびしくしつけられ家事をしこまれます。

最初の婚姻

きくは1848(嘉永元)年ごろに15歳で最初の嫁入をしています。

翌年、16歳で出産しますが子どもは亡くなってしまいます。

その後すぐに夫が亡くなり姑も亡くなりました。

10代で後家になってしまい実家に戻りました。

最初の結婚の婚姻期間は長くても15歳から18歳までの3年あまりだったと考えられます。

再婚

きくは19歳で再婚します。

再婚相手は青山延寿33歳でした。

1852(嘉永5)年11月、きくと延寿は互いに再婚で結ばれました。

ふたりを結びつけたのは延寿の先妻の母親でした。

延寿の先妻の母親はきくの実家の関口と親戚でした。

延寿の先妻はお産のときに亡くなり赤ん坊も亡くなってしまいます。

先妻の母親は延寿のことをたいそう気に入っていました。

延寿に後家となって実家にもどっていたきくを世話したのです。

夫は免職中

きくと結婚したころの延寿はそれまで勤めていた弘道館を免職となっていました。

延寿は水戸藩主の斉昭に気に入られ四男でありながら特別に別家召出しとして禄を受けていました。

1844(天保14)年、幕府は藩主・斉昭を仏教弾圧などの理由で謹慎処分にします。

水戸藩の下層階級の武士には斉昭を慕うものが多くいました。

そのため藩内では謹慎処分に対する抗議運動が起こり、延寿も藩に無断で江戸へ出て抗議活動をしようと計画します。

しかし、直前に病になって計画がもれてしまいます。

当時許可なく藩から出ることは犯罪でした。

1846(弘化3)年、延寿は無断出国を計画した罪により弘道館を免職となっていました。

(木戸之都子、2007、「青山延寿研究――履歴と著作目録中心に」『人文コミュニケーション学科論集』茨城大学人文学部、3: 176ー180)。

「おばさん」

延寿は再婚の翌年、1853(嘉永6)年3月に弘道館訓導に復職します。

1856(安政3)年、延寿は家塾を開く許可を得ます。

きくは塾のお弟子からは「おばさん」と呼ばれていたようです (山川、2019:19) 。

延寿は塾と『大日本史』の編纂と弘道館の教師とを兼ねていました。

そのため家でも自室で『大日本史』の仕事や調べ物をします。

同時に大御番おおごばんという務めもあり一日おきぐらいに勤めに出ていました(山川、2019:18)。

夫・延寿

延寿は四男で気軽で活動的な性格でした。

水泳、剣、槍、ともに免許皆伝のスポーツマンです。

身体も丈夫だったので、よく使われよく働いて育ちました。

家のあるじとなってからも畑もすれば襖障子の張替えもします。

よく働く上に無遠慮で快活で世話好きでした。

お弟子や親類のたれかれが「先生」とか「おじさん」とかいって何くれとなく相談事をもちかけてきます。

いつも身辺は賑やかでした(山川、2019:30ー1)。

こどもたち

延寿が弘道館訓導に復職した1853(嘉永6)年、10月に長女はつが生まれます。

はつは翌年1月に病没してしまいます。

1855(安政2)年、量市(『おんな二代の記』では量一)、1857(安政4)年に千世、1860(万延元)年にふゆとを三人の子を授かります。

きくが22歳、24歳、26歳での出産です。

「奥様」

きくは生母から「奥様」とよばれていました。

生母は関口の家を出されたあと商家に再縁しましたが、その後再び夫と死別して裁縫の師匠などをしていたところ、娘のとめと一緒にきくの家の長屋に引きとられました。

生母は娘のところでも身分違いということで主従の関係におかれました。

水戸では血縁より武士と町家出身者との区別が優先されていた証です。

生母は娘夫妻からたいそう大切にされて満足してたようです。

幕末の平凡な女性

『武家の女性』 において紹介したのは幕末に社会の表面に出て活動した英雄的な女性たちではなく、一口に「女子供」として問題にされなかった平凡な女たちとその生活だ、と山川菊栄は記しています (山川、2019:185) 。

それらの人々の夫や息子は、時を得て志士となり時を得ずして逆賊または朝敵として痛ましい最後を遂げました。しかしどちらの場合にも、黙々として働く女たちの忍苦と犠牲には変わりがありませんでした。夫や息子たちの流した血は、その母や妻たる人々自身の流した血も同様だったのです。

山川菊栄、2019、『武家 の女性』 岩波書店:185

芳賀徹氏によると、『武家の女性』は戦時下の閉塞状態のなかで書かれています。

『武家の女性』は1943(昭和18)年に出版されました。

最終尾に山川菊栄自らが

そういう住みにくい世の中、優しい時代を静かに、力強く生き通して、はるかに明るく、生きよい時代の土台を作っていった私たちの前代または前々代の親愛なるおばあさんたち・・・

と呼びかけて「深い敬意と感謝」を表している。

芳賀徹、2019、「解説」『武家の女性』岩波書店:190

関口きくと山川菊栄は祖母と孫ですが直接は会ったことはありません。

1889(明治22年)年11月4日、きくは推定56歳で病没しています。

1890(明治23)年11月3日に山川菊栄が千世の第3子としてきくの一周忌の前夜に誕生しています(山川菊栄、2014、『女二代の記』岩波書店: 104-5)。

関口きくは武士階級の娘であり、妻であり、母であり、「おばさん」「奥様」と呼ばれる女性でした。

そして、山川菊栄が「深い敬意と感謝」 を捧げる平凡な女性たちのひとりでした。