桜田門外の変 水戸藩

水戸藩下級武士の妻 関口きく

(写真は水戸城三階櫓 Wikipediaより)

「桜田門外の変」で井伊直弼を襲ったのは主として水戸藩の浪士でした。

事件を知った水戸藩はどのように動いたのでしょう。

水戸藩の下級武士・延寿(関口きくの夫)の日記には「桜田門外の変」について記された箇所があります。

事件直後の水戸の様子が伝わってきます。

事件から2日後の3月5日、江南(江戸のこと:水戸からみて南にあるため)から早馬が到着しました。

隠居の身であった水戸藩主・斉昭から水戸藩士にお諭し文が出されたと記されています。

三月五日

去る3日、本藩の士17人、桜田御門外に於て井伊殿登城先出迎え、双方怪我死人等沢山これあり、しかしながら井伊殿もとうとう殺害に及び候趣、この日江南より早馬来たる。この日文武師範等召され御直にお諭し有之、この後文武等相励み申すべき段御諭し文別に録す。

山川菊栄、1991、『覚書 幕末の水戸藩』岩波書店:272

お諭し文

斉昭のお諭し文の内容は彦根藩との衝突を心配するものでした。

  • 一人たりとも斉昭の命令なく江戸に登ることは許さない
  • 井伊家の相続も無事済んだから安心だが万一に備えて水戸藩士一同、文武両道怠りなく励むこと

「桜田門外の変」は水戸藩の一部の過激な藩士が起こした事件でしたが、それまでの経緯から斉昭の命令により井伊直弼を襲わせたと捉えられかねない状態でした。幕府をはじめ世間には、彦根藩と水戸藩の間には確執があるという印象があったようです。

確執

彦根藩と水戸藩との間に確執があるとされた原因は次の事柄でした。

 1、将軍の継承問題

    斉昭は自分の息子である一橋慶喜を次期将軍に推していたが、

    井伊直弼らが推す徳川慶福が継承することとなった

 2、朝廷の許可なく日米修好通商条約を締結したことに登城して抗議した

    家老である井伊直弼に抗議するために

    水戸藩斉昭父子、一橋慶喜、尾張藩主、越前松平春嶽が江戸城に登城した

    しかし、当時、大名は江戸城に登城できる日が決まっていた

    そのため規則違反で「おしかけ登城」の罪で斉昭らは隠居・謹慎の処分を受けた

 3、孝明天皇の手紙を幕府を通さず水戸藩が受け取った

    幕府を通さず直接水戸藩が手紙を受け取ったことは大問題

    幕府はこの勅書を返還することを求める

    水戸藩内では勅書を賜った光栄に初めは皆、酔っていたらしい

    水戸藩の武士、百姓町人の多数が江戸に向かって返還に抗議して押し寄せた

                           (山川、1991227-40)

これらのことから当時、幕府や世間では彦根藩と水戸藩には確執があるとみていたようです。

安政5年8月、勅書を受けてから水戸藩内は勅書返還の是非をめぐって混乱しました。    

「桜田門外の変」は安政7年3月3日 水戸藩が勅書を受け取ってから1年半後に起きました。

桜田門外の変の事件詳細

延寿のもとには、小石川藩邸勤務だった友人から事件翌日の3月4日付けの手紙が届いています。

手紙には、うわさ話だが・・・としながらもその時点でわかっていた事件についての詳細が記されていました。

 昨日早朝より春の雪降る中、

 水戸から来たといわれている10人あまり、24人ともいわれている侍が

      →実際には16名(マイケル・ソントン、2021、『水戸維新』PHP 研究所:34)

 井伊直弼登城途中、桜田門外で出会った

 こちらは簑笠みのがさや相合羽、思い思いの仕度をしていた

 稽古道具を担っており、最初、泥をこちらからかけたことで喧嘩を始めた

 稽古道具を全部打ち捨て、白刃を振るって井伊直弼の籠脇へ行き、左右から籠を突き通した。

 首をうちとり、ひとりが討ち取った首を掲げて日比谷御門まで逃げ去ったが、追いかけられそこで切腹した(姓名不明)

      →水戸藩士に混じり一人だけ事件に加担していた薩摩藩士:有村次左衛門でした。

 その場で割腹した者も多かったそうだ

 井伊家の側も死傷者があった

桜田門外の変図 茨木県立図書館ライブラリー 襲撃に加わった蓮田一五郎の書いた図

 雪のため井伊家は皆、柄袋をかけ、かつ合羽を着ていたので急に働くことはできなかったそうだ

 襲った側の4人が細川藩の屋敷に逃げ込んだ

      →逃げたのではなく、自首をしたかったがどこに行けば良いかがわからず

       とりあえず近くの細川藩邸に飛び込んだそうです。

 申し述べで細川藩に飛び込んできた4人が水戸藩の者だとわかった

 午前10時頃、細川藩からの早馬で小石川邸に使者が来て事件について知る

      →事件が起きたのは午前8時から9時ごろだったとされています。

       切り合いは10分ほどだったようです。

       事件から1~2時間後に知らせを受けたことになります。

 その後、小石川邸は門を締め切り、厳重警衛となる

 諸説紛々として詳しいことはわかりかねるが、聞いたままに申し上げた(山川、1991257-9)。

その後

事件はその日のうちに江戸市内に知れ渡りました。

お天気が良くなり、午後から夕方になると桜田付近のぬかるみの道にお祭り見物のように群れをなしたといいます。

桜田門付近には各藩から辻番という見張りが出ており、幕府への事件についての報告書も残っています。

なかには、なんと井伊直弼自身の報告書もありました。

井伊家には、将軍家から怪我のお見舞いとして大量の朝鮮人参が届けられたとか。

水戸藩が恐れていた彦根藩からの攻撃はありませんでした。

細川藩の屋敷に自首した4人は翌年、幕府により斬首になりました。

水戸藩側の事件関係者で逃げ延びた者のうちには明治維新後、水戸警察署に警官として勤めた者もいたそうです(山川、1991259-67)。

下級武士・延寿は

きくの夫・延寿は、「桜田門外の変」より前に勅書返還の騒動が起きたときに斉昭びいきの武士たちに混じって江戸に出て騒動に参加しています。

そのとき、「桜田門外の変」に参加した者も一緒だったようです。

桜田門外の事件以後、水戸では警備が厳重になりました。

斉昭のお諭し文が出てから、しばらくは延寿も宿直義務がふえたため家へ帰れない日が多くなりました。