水戸藩の後継者騒動

水戸藩下級武士の妻 関口きく

延于はすぐに水戸の東湖あてに自分仕立ての飛脚を立てて、事態の急を報じた。東湖はその手紙を見るとすぐに同志を語らって江戸へ飛び出した。・・・深夜、禁を犯して藩の許可もえずに水戸を立った。夜があけてそれと伝え聞いた藩内は蜂の巣をつついたよう。郡奉行からの物頭、郷士、同心、村役人、水呑百姓、神官僧侶に至るまで、水戸街道を江戸へ江戸へと押し出した。

山川菊栄、1991、『覚書 幕末の水戸藩』岩波書店:59

文政12(1829)年9月、子どものいない第8代水戸藩主・斉脩なりのぶが重体に陥り後継者問題が起こります。

幕府による財政補助を期待する幹部から御主殿さま(斉脩夫人・峰姫)の弟を徳川家から迎えようという話がもちあがっていました。

斉脩は異母弟・敬三郎を後継者とすることを承認して手紙を信頼する史館の儒者に残していました。

江戸にいた延于(関口きくの夫の父・儒者)がその手紙を江戸家老に持参して談判します。

しかし、あっさりとは受け入れられず、事の次第を説明する飛脚を水戸にいた藤田東湖に送りました。

二拠点

水戸藩には江戸と水戸の二拠点が存在していました。

水戸藩は御三家の中で一番領地が狭く、禄高も少ない藩でした。

そのかわり、江戸に近いので参勤交代の義務を免れていました。

藩主の希望した時に幕府の許可を得て帰国する特権を有していました。

藩主は江戸に定住しており水戸に住むことは稀でした。

なかには一生そのまま水戸の土を踏まず、藩政は国家老にまかせきりの藩主もいました。

斉脩もそのひとりでした。

江戸・小石川藩邸

江戸の小石川藩邸(現在の後楽園)における生活は、水戸の生活からかけ離れたもので水戸ではお目にかかれないような高級で新しい商品やサービスを楽しみました。

江戸における藩主と側近の贅沢は藩の財政の重荷になりました。

水戸藩の影響力・江戸から全国へ

藩主が江戸に常駐することをゆるされていたため水戸藩の権力の中心は江戸にありました。

マイケル・ソントン氏は、藩の権力の中心が江戸にあることは全国に影響を及ぼすことも可能だったことを意味したとしています(マイケル・ソントン、2021:30-1) 。

将軍の住む都である江戸は全国各地とつながっていたためです。

江戸育ちと水戸育ち

水戸藩士は家族でそろって江戸に住む者もいれば、江戸に出たこともない者もいました。

同じ水戸藩士でも江戸育ちと水戸育ちではまるで違っていたようです。

江戸育ちはおしゃれで、気どっていてイキで、髪の結い方から着物、物言い、まるで舞台の上で役者のしている侍みたいでした。袂に両手を 入れてつき袖をしてシャナリ、シャナリとやってこられたりすると、こっちは田舎侍同士、顔を見合わせて、吹き出すのをこらえるのがやっとでした。41

山川菊栄、1991、『覚書 幕末の水戸藩』岩波書店:41

水戸勤めのものは江戸勤めのものを羨み、江戸勤めのものは水戸勤めのものを蔑むという風潮を生みました(マイケル・ソントン、2021、『水戸維新』PHP 研究所:34)。

江戸勤めには出張手当などが支給されており、経済的にも水戸勤めより優遇されていたようです。

後継者騒動の決着

江戸へ江戸へとおし出た士分以下数百人は松戸の関所で阻まれて待機しました。

江戸に入った藤田東湖は、仲間とともに小石川邸や江戸の藩主の近親諸侯を歴訪して敬三郎を後継者にするための支援を請いました。

この騒ぎの中、斉脩は30歳で世を去ります。

死後、御守殿さまと家老にあてた正式の遺書が発表され、敬三郎が正式に後継者となります。

敬三郎は30歳で第9代水戸藩主・斉昭になりました。

この一件で史館の一秀才にすぎなかった藤田東湖は政治家となり斉昭の信任を得ます。

江戸への抗議運動の前例

この騒動が江戸への抗議運動の前例をつくったと山川菊栄は述べています。

藩から出るには許可を得なけなければなりませんでした。

藤田東湖を忠臣とする下士層は、その禁を犯して江戸へ出ました。

彼らは自宅謹慎程度の罰をうけたのみで政界の中心勢力に発展していきました。

山川菊栄は、これが先例となり伝統となり、この後、事あるごとに無願出府をあえて犯して江戸へ出るようになったとしています。

忠臣義士をもって任ずる者、出世褒賞をひそかに期待する者、何とはなしに無事をきらい、興奮してさわぎ立てる血気の青年輩が何百何千の大集団となり沿道を騒がせた。たび重なり、時勢の動きにつれてこのデモはますます強力となり、深刻化し、遂に水戸藩自身と共に、幕府の危機まで招くいとぐちとなったのであった。

山川菊栄、1991、『覚書 幕末の水戸藩』岩波書店:62-3

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