安政七(万延元)年六月朔日天気
一いづや女房来ル、みやケニようかん到来、千葉より使来り生ぶし小重へ・くわし到来、福田よりも届ケニてようかん到来、いづや女房同道ニてお梅・おミさ八幡様へ豪徳寺へも参詣ス、
(世田谷区、2013、『大場美佐の日記』(復刻版):16)
今から160年ほど前、万延元年6月1日の大場美佐の日記です。
安政7年は3月18日から万延に元号が変わりました。
6月1日といっても当時は太陰暦だったので、新暦の6月下旬ごろのようです。
生ぶし、菓子、ようかんといただきものがたくさん。
「おミさ」とは、大場美佐自身のことです。
当時、武士階級の女性は独り歩きすることはできなかったので、お梅を伴って、いづやの女房と一緒に、世田谷八幡と豪徳寺に朔日のお参りです。
日記を書き始めた安政7年は、「桜田門外の変」があった年であり、江戸時代末期から明治への大場家の変化の時代を記録し続けたといえます。
日記は使用済みの紙を裏返して使い、1年分を1冊としてまとめ、1冊ごとにその表紙には「○○年正月 大場美佐」と大きく記されています。
美佐は25歳ごろに大場家に嫁ぎ、3年後の1860(安政7)年正月元旦から日記を書き始めました。
その後、1904(明治37)年12月26日まで45年間日記を書き続け、翌年73歳で亡くなっています。
日付と天候だけは何も記載がないときにも記録し続けています。
姑2人 小姑1人 「御部や様御三人」
日記に出てくる千葉、福田は夫・与一の親戚筋であり、大番与力です。
大場家は長兄、次兄が夭逝、三男は福田家の養子となり、四男の与一が大場家を継ぎ彦根藩世田谷領の代官となりました。
美佐が大場家に嫁いだ当時、大場家には夫・与一の母と与一の亡くなった祖父の三番目の妻が同居していました。
そして与一のおば殿と称される与一の父の妹も同居しており、安政7年の日記では美佐は彼らの事を「御部屋様」とか「御部や様御三人」と記しています。
また、系図によると、ほかにすずという与一の妹も存在していたと思われる (世田谷区、2011、『大場美佐の日記』(復刻版)池上博之 編集後記 : 289)とされています。
大場家と親戚:美佐の育った鏑木家
美佐は、1831(天保4)年12月18日、中延村(現東京都品川区)の鏑木善兵衛秀胤の次女として生まれました。
鏑木家は『新編武蔵国風土記稿』に「旧家百姓利兵衛」(美佐の祖父)として記載がある家で、鏑木氏は古くからの豪農だったようです。
美佐が25歳までどのように過ごしていたかは不明です。
美佐と与一の婚姻
鏑木家と大場家とは血縁的にも濃密な間柄であり、美佐と与一の縁談は自然に成立したと考えられる(池上博之、 1991「大場美佐の日記について」『地方史研究』地方史研究協議会、234: 2-9:2)とされています。
世田谷代官だった父が亡くなり、与一が大場家の家督を継いで、代官見習いから正式に代官になったのを機に婚姻が成立したようです。
婚姻は代官に任命された一月後でした。
与一31歳、美佐25歳でした。
美佐と与一の婚姻の様子が世田谷領上野毛村の名主の記録に残されています。
御代官与一様御新造御引き移る、八月下旬頃御引き取るに付き、九月九日、御領分弐拾ヶ村一同より御祝儀として金四百疋差し上げ候えば、猶又御吸物・酒肴、本膳之御祝義御馳走下し置かれ、残らず大酒いたし御祝い申し上げ候て目出度く、夫々共夜に入り、帰宅罷り在り候なり
世田谷領上野毛村 安政4年
(世田谷区 、1992、『世田谷区史料叢書・第7巻』:166)
日常の記録
六月二日朝薄曇四ツ頃より天気夕立
一いづや女房早朝ニ帰ル、
六月三日薄くもり天気
一右次郎御出、安太郎旅立せん別遣ス、原より入どふふ一重到来来ス、
(世田谷区、2013:16)
いづや女房は一泊して翌朝早くに帰ったようです。
右次郎殿が来て、安太郎の旅立ちに当たり餞別を渡し、親戚の原から炒り豆腐をもらっています。
このように日記には人の出入り、贈答、催事、客人へ出したものなどが記録されており、感情的なことは書かれていません。