安政7年 正月

彦根藩世田谷領代官の妻 大場美佐

画像:四方赤良、1784、『年始御礼帳』3巻:国立国会図書館デジタルコレクション

大場美佐日記

安政七年 元日少々くもり四つ頃より天気

例之通り吉例相済宗八初上町者礼二出候事、

(世田谷区、2013、『大場美佐の日記』(復刻版):1)

世田谷代官の妻・大場美佐が明治38(1905)年72歳まで45年間書き続けた日記の最初の一日です。

美佐は28歳でした。

大場家に嫁入りして3年目です。

この年、安政7年3月3日「桜田門外の変」が起こります。

事件の約2ヶ月前の正月の記録です。

元旦の祝を例年の通りに行います。

名主の宗八、近隣・上町の人々が新年の挨拶に訪れています。

武家の元旦

武家の元旦は当主が大忙しです。

夜明けに一家の当主は、裃かみしも姿に威儀を正して、新しい手桶に水を汲みます。

この若水で雑煮をつくり、福茶をたてるのを事始としていました。

料理の支度が整ったら、家族、使用人全員衣服を改め、屠蘇酒を順に飲み雑煮を祝います。

当主はその後、登城して将軍または大名に新年の祝賀に赴きます。

笠間良彦、1995、『復元 江戸生活図鑑』柏書房:90

幕府の正月行事

江戸城では正月の賀儀があります。

賀儀は元日から3日間、身分・格式により日を分けて行われました。

官位によって定められた礼服を着用します。

元日は六ツ半時(午前7時)に登城し、将軍に大広間で年頭の祝詞を述べます。

江戸城での行事にはお供も着飾って出かけます。

城内に入れる人数は限られています。

大手門周辺は城内に入れなかったお供の人々で華やかになりました。

武士生活研究会編、2002、『図録・近世武士生活史入門事典』:68

大場家の正月吉例

大場家には、美佐の夫・与一の祖父である大場弥十郎が残した『家例年中行事』が存在します。

『家例年中行事』 には正月についても詳細な記載があります。

元旦の朝、年男が新しい手桶で午前4時ごろに水をくみます。

その水を風呂、手水、うがいに使い、茶を煎じます。

家族皆、朝風呂に入り、身を清め、正装をします。

神拝し、神棚へお雑煮を供えます。

お雑煮は、大根の輪切り、里芋が入っており、味噌をおとしています。

三つ組みの盃、数の子、大福茶、田作りなどが祝の膳に登場します。

家来は焼き餅と雑煮のみです。

大場家は年貢徴収などの功績が認められ、弥十郎が歩行という身分で彦根藩士になります。

その後は、彦根藩主への挨拶など公の行事を優先するようにと指示しています。

正月の吉例は元旦から三日まで行われました。

大場家の正月二日

美佐の安政七年正月二日の日記です。

代官である美佐の夫・与一は彦根藩主・井伊直弼に年始の挨拶をするために出かけています。

二日明方少々ふり出し四つ頃より天気

吉例相済明七ツ前より御上屋敷江御礼御出被遊候、籠てけん上物持参致供・草り取共四人連、ふかしそめ致、子供書初参り候、八幡様御部や御三人様参詣之事、米蔵・藤蔵・根・横・竹の上之者共礼参り候事、夜四ツ頃御帰り

(世田谷区、2013、『大場美佐の日記』(復刻版):1)

吉例が済み、与一は明け七ツ前(午前4時ごろ)に新年の挨拶をするために彦根藩井伊家上屋敷へでかけています。

午前4時にでかけるためには、午前2時か3時に吉例を始めていると思われます。

彦根藩井伊家上屋敷は千代田区永田町にありました。

安藤広重 桜田外の図 井伊家上屋敷 国立国会図書館デジタルコレクション 錦絵で楽しむ江戸の名所より

現在、彦根藩上屋敷の跡には憲政記念館が建っています。

与一はかごに乗り、献上物を持参しました。

献上物に多く用いられたのは干鯛です。

草履取りなど家来を4人連れています。

与一が世田谷の代官屋敷に戻ったのは夜四ツ頃(夜10時ごろ)でした。

留守宅では、美佐が新年初めての蒸物「ふかしそめ」をしています。

『家例年中行事』 では赤飯を蒸しています。

正月二日目は書き初、騎馬初、馬洗初、洗初、謡初が行われます。

八幡様に姑たち3人がお参りしています。

美佐は新年の挨拶に訪れる村々の者に対応しています。

七草粥 

6日の夜から7日の暁にかけて七草がゆをとります。

大場家の七草がゆは7種の野菜ではなく、なず菜のみです。

門松は、なず菜入りの粥を供えたあとで人通りの少ない7日未明にかたづけます。

なず菜を七種の道具で叩いて七草粥をつくったとしている本もあります。


歌川国貞: 「春遊娘七草」 – 東京都立中央図書館

包丁、火箸、しゃもじ、すりこ木などの7道具でたたいて、はやしたてました。

武士生活研究会編、2002、『図録・近世武士生活史入門事典』:71

位の高い武家では、台所掛の者が紋付き麻裃かみしも姿で七草粥の用意をしました。

「唐土の鳥が日本の土地へ渡らぬさきになった七種ななくさ

と囃子ながら、まな板の上の菜をすりこ木でたたきます。

笠間良彦、1995、『復元 江戸生活図鑑』柏書房:90

鏡開きと蔵開き

11日は正月の行事の締めくくりです。

武家では甲冑に供えていた鏡餅を槌か斧でかち割り雑煮として食します。

大場家では蔵開きで元日から閉めていた土蔵の鍵をあけます。

武士の正月は年賀に忙しい時期です。

上司、親類、同輩へ挨拶をしにいったり、受けたりと忙しい日々でしたが、鏡開きを区切りとして翌日から通常の生活にもどります。

安政7年の正月、いつもと変わりなく行事を終えました。

2ヶ月後「桜田門外の変」による異変が美佐の日記に記されます。

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