宗門改め

彦根藩世田谷領代官の妻 大場美佐

大場美佐日記 

安政七年(万延元年)八月廿六日天気

一宗門御改メ例之通有、事済酒・肴・口取物・さし身・すの物・そば出し酒盛有直相済、だんごも出し、御二度ハ豪徳寺へ御出被成候事、

(世田谷区、2013、『大場美佐の日記』(復刻版):24)

宗門改めが終了。

例の通りご馳走を奉行衆に出し、夫・与一は豪徳寺へ二度出かけたようです。

「だんごも出し」・・・旧暦8月15日は中秋です。

大場美佐の季節にも配慮したもてなしです。

例之通り

美佐の日記に何度も出てくる「例年之通り」のうちの一日です。

翌年の日記には三月に人別に関する記載があります。

宗門改めは基本的には毎年行われていたようです。

そのため 「例の通り」 と記載されていたのでしょう。

宗門改めとは

宗門改めはキリシタン禁制のための信仰調査の記録でした。

全国で毎年作成することが義務付けられたものです。

やがて内容的には領民の人口調査となっていきました。

人別奉行山田様

八月廿二日天気風少々吹

一御人別奉行山田来ル、地しん度々入る、

(世田谷区、2013:24)

8月22日、人別奉行の山田が来ます。地震が何度かあったようです。

翌23日には 「例の通り」 世田谷・太子堂・馬引沢・弦巻村の改めが済んでいます。

25日には宗門改めが終わり、奉行衆にごちそうを出し、一泊したあと翌朝一行は帰っていきます。

八月廿七日明方雨ふり出し時々雨八頃より少々嵐

一奉行衆八頃御立之事、山田様いのかたへ御出翌日此迄御帰り、

八月廿八日雲出天気

一早朝山田来り酒・飯出、昼過御やしきへ御帰り、

(世田谷区、2013:24)

山田様だけはいのかたへ出かけます。

翌々日朝から来て酒とご飯をごちそうになってから昼過ぎ彦根藩の屋敷へ帰りました。

美佐の日記には「山田様」として登場することが多いのですが、次第に山田と呼び捨てで記されることが多くなっていきます。

山田は酒・肴を出され、晩は泊まっていき、翌朝また酒を飲み夕方に帰ることが多い人物です。

山田氏佐野へ

霜月廿三日天気夕方少々曇

一うな根村新四郎よりかも一わ到来ス、・・・

・・・山田氏廿八日佐野へ御出立付暇乞い御出酒・肴・吸物出事・・・

(世田谷区 2013: 32)

11月23日に佐野(彦根藩は現在の栃木県佐野にも賄領があった)へ出立することになったと別れを述べに来たのを酒肴でもてなしています。

霜月廿六日天気曇八ツ過より雪ふり出し

一早朝旦那御上やしきへ挽抜そば納ニ御出府被成候所青山出火有原へ近火見舞ニ御立寄被成直ニ御屋敷へ御出、寒中見舞も相済山田へはなむけ半紙拾状御持参御出之事、六ツ過ニ御帰り紋御供行、

(世田谷区 2013: 32)

上屋敷へそばを納める途中、親戚の青山家周辺に火事が出た見舞いもするという忙しい日でした。

雪までふりだすという悪天候です。

それにもかかわらず、わざわざ与一自ら山田にはなむけを届けに出かけています。

与一の思いが察せられます。

後任者広田との違い

翌年から見廻りや人別改めなどは「広田」になります。

交代になった年、万延2年の日記に「広田」が現れる回数は7回です。

安政7年「山田」の日記登場回数は33回です。

「広田」に比べると安政7年の「山田」の登場回数がいかに多かったかがわかります。

安政7年は「桜田門外の変」がありました。

井伊直弼の葬儀などもありました。

そのため山田氏の出入りが多かったとも考えられます。

元治2年3月24日には山田氏夫婦で大場家に酒1升を持参して訪ねてきています。

与一と山田はよほど気が合い、個人的な交流が続いていたと思われます。

代官のしごと

世田谷代官の最も重要な仕事は年貢の収納に関することでした。

万が一、年貢の収納が滞ることがあれば責任を取らなければならない立場でした。

前世田谷代官の家は年具未納の責任をとらされ年貢横領の罪で職を解かれ追放されています。

世田谷代官は佐野奉行の配下に属していました。

また、江戸詰めの彦根藩勘定奉行と賄方からも直接指示を受ける立場にありました。

代官のしごとは年貢収納に関することのみではありません。

在地代官は事あるごとに人足や物資を藩の指示で集める必要がありました。

そのため農民にも直接関わっていかねばならない立場であったと考えられます。

美佐の役割

美佐は役人が来るたびに酒、肴を出すなどしています。

美佐は接待に直接関わっていました。

そのための計画的な食物の管理、人の采配を必要とする役割を負っていたと考えられます。

美佐が藩や幕府、村の役人に対し酒・肴を出して接待をすることは、結果として夫の仕事が円滑に進む助けとなっていたと考えられます。

夫が職務を円滑に遂行するための関係づくりの一助になっていたようです。

もてなしとしての行為は代官としての与一のしごとを補助しています。

手厚いもてなしを受け、山田氏は与一との交流を深めていきました。

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