彦根藩世田谷領代官の妻・大場美佐の日記には主として代官屋敷に出入りする人が記録されています。
そこで、1860(安政7)年の日記を文章でそのままエクセルに入力してみました。
日記に名前が何回登場するかを抽出することで美佐がその人物とどのようにかかわっていたのかを分析できると考えたからです。
第1位 旦那
美佐の日記の中心人物は「旦那」です。
「旦那」とは美佐の夫である世田谷代官・大場与一のことです。
「旦那」の登場回数は34回ですが「旦那」とせずに行動のみを書いている場合もあります。
与一は泊りで出かけることも多くあります。
美佐が把握しているのは与一の外出とその理由のみです。
外出先での与一の行動は記されていません。
江戸時代の大名は江戸屋敷として幕府から上屋敷、中屋敷、下屋敷など3つ以上の地所を拝領していました。
彦根藩主・井伊家の上屋敷は桜田にありました。
中屋敷は赤坂喰違、現在はホテルニューオータニが建っています。
ホテルのある紀尾井町は紀伊徳川、尾張徳川、井伊の中屋敷が存在していた場所でそれぞれの一字をとって名付けたとか。
下屋敷は八丁堀、千駄ヶ谷(現在の明治神宮内)にありました。
日記に出てくるのは上屋敷と中屋敷だけ。
与一が出かけていたのは上屋敷と中屋敷のみだったようです。
昼頃に世田谷を出た日は泊りになる日が多くなっています。
上野屋は宿の名前でしょうか。
与一は上屋敷や中屋敷に届け物をしたり挨拶をするために出かけています。
第2位 紋、友
「紋」97回、「友」83回 安政7年の美佐の日記に登場しています。
「紋」と「友」は与一が出かけるときに必ず供として付き添っています。
日記に数回ですが紋之介、友次郎と記されている人物が出てきます。
「紋」と「友」のことだと思われます。
ふたりは与一だけでなく大場家の婦人たちの供をすることもありますが数は限られています。
使いとして「紋」と「友」のどちらかがひとりで上屋敷や中屋敷にでかけることもあり、届け物を方々にする、油や薬を取りに行くという役目を負っています。
大場家の物流や通信を担っていたようです。
ときには垣根を結うなどという作業の手伝いをすることもあります。
仕事は多様で活動範囲も江戸との往復が多いので若い丈夫な青年だったのではないかと想像します。
第3位 山田
夫である「旦那」、使用人の「紋」「友」の次に多くの回数登場するのが「山田」の33回です。
代官屋敷は職場兼住居です。
彦根藩の奉行や役人が代官屋敷に出かけてくることもありました。
美佐は役人が来るたびに酒、肴を出すなどしてもてなしています。
その中のひとりが「山田」です。
8月の宗門改めのときの様子です。
八月
廿六日天気
一宗門御改メ例之通有、事済酒・肴・口取物・さし身・すの物・そば出し酒盛有直ニ相済、だんごも出し、御二度ハ豪徳寺へ御出被候事、
廿七日明ケ方雨ふり出し時々雨八ツ頃から少々嵐
一奉行衆八ツ頃御立之事、山田様いのかたへ御出翌日此迄御帰り、
廿八日雲出天気
一早朝ニ山田来り酒・飯出ス、昼過御やしきへ御帰り、
(世田谷区、2013:: 24)
美佐の日記にはこのとき「山田様」として登場するが、次第に山田と呼び捨てで記されることが多くなります。
酒・肴を出され、晩は泊まっていき、翌朝また酒を飲み夕方に帰ることが多くなっています。
安政7年は桜田門外で藩主・井伊直弼が亡くなった年で豪徳寺で葬儀があり役人の出入りが特に多い年でした。
この年の山田氏は11月4日に病気届を知らせてきており、23日には同じく彦根藩領の栃木県・佐野へ出立すると別れを述べに来たのを酒肴でもてなしています。
霜月
廿六日天気曇八ツ過から雪ふり出し
一早朝ニ旦那御上やしきへ挽抜そば納ニ御出府被成候所青山ニ出火有原へ近火見舞ニ御立寄被成直ニ御屋敷へ御出、寒中見舞も相済山田へはなむけニ半紙拾状御持参御出之事、六ツ過ニ御帰り紋御供ニ行、
(世田谷区、2013:32)
上屋敷へそばを納める途中、親戚の青山家周辺に火事が出て見舞いに行くという忙しい日でした。
その上、雪までふりだすという日であるにもかかわらず、わざわざ自身で、はなむけを届けに出かけていることから与一の思いが察せられます。
翌年から見廻りや人別改めなどは「広田」になり、交代になった翌1860(万延2)年に「広田」が現れる回数は7回です。
与一の亡くなった年、代官職交代のことでやり取りが多かったと予想される1865(元治2)年でも「広田」の登場回数は21回であることから、いかに1860(安政7)年の「山田」の登場回数33回が多かったかがわかります。
また、1865(元治2)年3月24日には山田氏が夫婦で大場家に酒1升を持参して訪ねてきています。
この「山田」が安政7年に多く登場する「山田」氏と同一人物だとするなら与一と山田はよほど気が合い、仕事上の付き合いに留まらず個人的な交流が続いていたと思われます。
参考文献:世田谷区、2013、『大場美佐の日記』(復刻版)