実家との関係

彦根藩世田谷領代官の妻 大場美佐

世田谷代官の妻・大場美佐が書いた1860(安政7)年の日記をエクセルで分析してみました。

代官屋敷に出入りする人々は、彦根藩の役人、使用人、名主、地元の人々、大場家の親戚などです。

美佐自身も代官屋敷を出入りしています。

美佐の日記登場回数

安政7年の日記に美佐自身が登場するのは24回です。

大半は実家のある中延(品川)との往来です。

実家以外の外出について列挙すると

この年に亡くなった彦根藩当主である井伊直弼の葬式拝見。

井伊直弼の葬式は代官屋敷のそばの豪徳寺で行われました。

ほかに八幡さま、宗八(名主)方、江戸み坂(実家がある中延近くと考えられます)へ。

親戚の福田の出産祝いには篭に乗ってでかけています。

美佐ひとりでの外出はありません。

必ず誰かと一緒です。

外出以外では美佐が腹痛をおこし「紫金錠」という薬を飲んで良くなったこと、

そして、そのひと月後に医者に診てもらったことを書いています。

実家との往来

安政7年の日記には閏月を含め384日が記録されています。

384日のうち美佐は実家に43日間滞在しています。

1月、閏3月、5月。

それぞれ7泊8日です。

そして鎌倉旅行。

ほかに法事などで2泊3日ほどの滞在が3回。

日帰りも一度あります。

母が泊まる

美佐の母親が代官屋敷に泊まることもありました。

日記で母親は「中延御母殿」と記されています。

1860(安政7)年「中延御母殿」は3回代官屋敷を訪れています。

美佐の夫・与一が体調を崩した1865(元治2)年には8回です。

この年は母親が泊まって帰る日も多くなっています。

ひとり娘の預け先

美佐には娘がいました。

ひとり娘「りん」を実家や美佐の姉の嫁ぎ先である角田家に時々預けています。

美佐が鎌倉へ旅行したときも角田家に「りん」を預けて出かけています。

代官屋敷にいる夫や義理の母には預けなかったようです。

大場家と実家の関係

大場家と美佐の実家はともに武士が土着し農民になった家です。

大場家から美佐の実家に嫁入りした人もいます。

両家は代々血縁的にも濃密な間柄だったのです(池上 1988:285)。

世田谷の幕末維新期の婚姻状況

森安彦氏は世田谷大師堂村の幕末維新期の百姓身分の女性55人を調査しています。

それによると太子堂村の女性の婚姻の平均年齢は22.4歳。

最年少は15歳、最年長は38歳です(森 1986:143)。

婚姻圏は村内が約20%。

村外は約80%。

村外の人との婚姻が主流です。

村外といっても江戸から日帰りできる範囲です。

妻の実家に行って用を済ませ帰って来られる範囲が婚姻圏でした(森 1986: 162-9)。

婚姻関係は同じような家柄で財産の状況が同じくらいの家同士で形成されています。

これらのデータは大場美佐の婚姻の状況と類似しています。

実家との結びつき

このブログで取り上げた三人の女性たちは実家との関係が婚姻後も継続しています。

水戸藩士の娘・関口きくは婚家の長屋に母親を住まわせ同じ敷地内で生活しました。

旗本婦人・伊東万喜は江戸と岡山で遠く離れており婚姻後一度も実家へ帰ることはできませんでした。

しかし、実家の両親へ手紙を書き続けています。

大場美佐は婚姻後も実家との往来が盛んです。

そして美佐の夫・与一が亡くなった後、代官をひきつぎ大場家を継いだのは美佐の弟でした。

参考図書:

池上博之、1988、「解説」『大場美佐の日記 一』285-96。 

森安彦、1986、『世田谷女性史(中)――幕末期の太子堂村と妻たちの生涯』東京都世田谷区。