御守殿さま・御簾中さま

水戸藩下級武士の妻 関口きく

写真は水戸藩9代藩主・斉昭夫人(御簾中さま・吉子女王)『ウィキペディア(Wikipedia)』

『武家の女性』関口きく

当時の水戸家では、元日だけは、大広間の上段の間の座ぶどんの上に夫人を座らせます。

藩主以下一同、下段の間に平伏して新年のご祝儀を申しあげ、夫人からお盃を頂戴したようです。

( 山川菊栄、1991、『覚書 幕末の水戸藩』岩波書店:171)

御三家の奥方は「御簾中ごれんじゅう」とよばれます。

元日は「御簾中さま」が主役です。

この行事について、著者の山川菊栄は夫人の人格を尊重したり夫人に敬意を表する意味はなかったとし、夫人によって象徴される皇室に対する斉昭のあこがれ、センティメンタリズム、こっとう趣味の現われとみてよさそうだとしています。

御守殿さま

将軍の娘が大名の奥方になると「御守殿さまごしゅでんさま」とよばれます。

水戸8代藩主・斉脩の奥方は徳川将軍・家斉の娘で「御守殿さま」でした。

「御守殿さま」には幕府から年1万両のお化粧料が支払われます。

水戸家は「御守殿さま」のお化粧料をあてにして奥方に迎えました。

「御守殿さま」には別に御殿を新築しなければなりません。

毎回の食事も特別です。

大奥のしきたりをそのままもちこみ奥女中がいっぱいです。

「御守殿さま」の取り巻きは贅沢や無駄のし放題。

1万両のお化粧料では、まかないきれなかったそうです。

御守殿同士

同じ頃、加賀藩の奥方も将軍家から迎えられ御守殿さまになりました。

水戸家の「御守殿さま」の妹でした。

加賀藩前田家の上屋敷跡には、現在、東京大学本郷キャンパスになっています。

小石川の水戸藩邸と本郷は近く「御守殿さま」同士の姉妹が季節の贈答や衣装などで、はりあったそうです。

水戸藩の役人はお化粧料を倍に値上げしてもらいたいとぼやきます。

加賀藩は100万石でしたが、水戸藩は御三家とはいえ35万石(実質は25万石)だったからです。

裕福な加賀藩にとっても将軍家の姫君との婚礼の負担は大きかったようです。

加賀藩は御守殿さまを迎えるために御殿と御守殿門を新築します。

御守殿門は東京大学赤門として残っています。

旧加賀屋敷御守殿門(東京大学赤門)大正元年卒業アルバムより『ウィキペディア(Wikipedia)』

この婚礼成功のご褒美に『武士の家計簿』の「加賀藩御算用者」であった猪山金蔵信之は年収の半分に近い小判7両と、めったにないことですが領地まで拝領しています。

(磯田道史、2007、『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」 の幕末維新』新潮社:32-4)

斉昭の嫁選び

8代水戸藩主・斉脩なりのぶと「御守殿さま」の間には子がなく、斉脩の実弟である斉昭が9代水戸藩主になりました。

斉昭は「御守殿さま」に敬意を表して贅沢やわがままを許します。

しかし「御守殿さま」が大奥の派手な暮らしぶりをそのまま持ち込み、水戸の苦しい台所をいよいよ危機に追い込む手伝いをしていると見ていました。

そのため、自分の妻選びには水戸藩の懐加減を気にかけていました。

候補者には大名や五摂家の姫君16名がいました。

公卿から嫁をもらうと、嫁入り支度いっさいは大名である水戸藩の負担です。

また、婚姻後も姫宮の京都の実家へ仕送りを続けることが当然のしきたりとなっていました。

大名家から嫁を迎えると、持参金と実家をカサにきて、いばりちらすわがまま娘と気の強い女部隊に乗りこまれ、御殿を新築させられます。

斉昭は有栖川家の姫宮を選びます。

公卿から嫁を迎えたほうが安上がりとみたのと南朝の正統といわれる有栖川家の姫宮がありがたくもあったのであろうと山川氏は推測しています。

(山川菊栄、1991『覚書 幕末の水戸藩』岩波書店:160-3)

京都からの嫁入り

水戸家は嫁入り支度いっさいを江戸の職人に注文しました。

出来上がると京都まで運びます。

水戸家の紋のついた「ゆたん」(タンスなどにかける布)をかけた何十荷の行列に警護の武士が付き添っています。

水戸家家紋 徳川家の象徴である葵紋 『ウィキペディア(Wikipedia)』

京都に到着すると花嫁とともに同じ嫁入り支度の行列が、今度は逆に江戸へ向かいます。

姫宮というとかなり若い女性を想像します。

しかし、当時としては大変な晩婚だったそうで姫宮・登美宮とみのみや吉子は28歳でした。

斉昭は32歳でした。

婚姻は天保2(1831)年のことでした。

御簾中さま

登美宮とみのみや吉子は 「御簾中さま」になりました。

吉子は京都育ちで質素倹約を苦とせず着物は侍女たちと同様、黒つむぎの紋付きを常用しました。

書は有栖川家の御家流の能書でお手本書きを頼まれるほどで、画もよくし刺繍や押絵は、京都にいたころ商人から注文をもちこまれ内職にもなっていたそうです。

音楽好きで、琴、鼓、笛が得意でした。

斉昭の改革で一般藩士の家庭では音楽は禁止されていましたが、奥御殿では琵琶に秀でていた斉昭と夫妻で合奏を楽しむこともありました。

また、魚釣りが趣味で水戸城に住んでいたころは奥女中たちを従えて釣糸をたれている姿がよくみかけられたそうです。

将軍・慶喜

斉昭は22男17女という子沢山で側室の数は数え切れなかったといいます。

吉子は3人の男子を生みます。

ひとりは早世してしまいます。

残ったふたりのうち、ひとりは10代水戸藩主となる慶篤。

そして、もうひとりは、のちの徳川家最後の将軍・慶喜でした。

1867(慶応2~3)年 大阪の徳川慶喜  
松戸市戸定歴史館 『ウィキペディア(Wikipedia)』

(山川菊栄、1991『覚書 幕末の水戸藩』岩波書店:165-9)

女性の背景にある「家」

斉昭は公武二重政権の矛盾には触れようとせず、その両立を信念とする尊王敬幕の旗じるしを水戸藩への置き土産として、万延元(1860)年8月世を去った。

(山川菊栄、1991『覚書 幕末の水戸藩』岩波書店:183)

「御守殿さま」は将軍家出身。

「御簾中さま」は宮家出身。

斉昭の尊王敬幕の旗じるしは女性たちへの接し方にもあらわれているようです。

二人の女性は自らが生まれ育った「家」を背景に存在していました。

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