安政7年3月3日上巳の節句(ひなまつり)の日。
五つ半(午前9時)江戸城へむかっていた約50名超の彦根藩井伊家の行列に水戸の志士15名(神官3名を含む)と薩摩の1名が斬り込みました。
雪から刀を守るために柄袋をかけていて彦根藩士たちはすぐに応戦することができませんでした。
襲撃の際、井伊直弼は首をとられます(マイケル・ソントン、2021、『水戸維新』PHP 研究所:34)。
井伊直弼、享年46歳でした。
彦根藩の世田谷領代官の妻・大場美佐の日記を見てみましょう。
大場美佐日記
安政七年 三日雪ふり夕方よりやミ
御節句例之通り祝ひ候事、九ツ時頃太子堂弁次郎より以使御屋敷二て変事出来致候事申越候、夕方野良田・下のけ。小山名主三人之者御礼二行、帰り委細御様子相わかり夫より仕度被成御上屋敷へ御出府、宗八・麻二郎・人足六七人連御出被成候事、夜明ケ方皆々御帰りの事、
(世田谷区、2013、『大場美佐の日記』(復刻版):6)
安政7年3月3日ひな祭りの日
正午に太子堂に住む弁次郎から彦根藩の桜田屋敷で変事があったことを知らせる使いが来ます。
新暦3月24日・雪
安政7年3月3日は新暦に換算すると1860年3月24日です。
3月下旬の雪でした。
美佐の日記によるとこの日の前後20日ほど曇りや雨の日が続いています。
変の前後
ーひな祭り準備
2月28日やっと晴れました。
大場家では毎年この日にお雛様を出しています。
進物品を持って来る人もいてにぎやかです。
29日は餅つきでした。
ーひな祭り当日
例年通り節句の祝をしました。
正午に桜田屋敷で変事があったことを知らせが到着。
雪は夕方になってやみます。
節句の御礼に行っていた名主たち三人が帰ってきて変事の内容がわかりました。
彦根藩世田谷領の代官である与一(大場美佐の夫)は桜田屋敷へ出かけます。
宗八と麻二郎、人足を6~7人連れて出ていきました。
翌日の夜明け頃に皆そろって帰宅します。
ー3月4日から10日
4日 近隣、名主、美佐の実家・中延から人々が見舞いに来る
5日 麻二郎が来て詳細を話す
6日 お屋敷から急に人足を差し出すようといわれる
7日 与一が上屋敷へ人足と共に出かける
8日 与一は再び7つ頃(夕方3~5時)中屋敷へ名主3人を連れて行きその日は泊まる
9日 八ツ時頃(午後1~3時)与一が戻り、すぐに名主や年寄を呼び寄せ申し渡しをする。
10日 名主、人足らが再びやってくる
事件内容についての記述はありませんが与一の桜田屋敷への出入りが記録されています。
ー11日以後
11日 宗八方から送り膳が届く(与一が出席すべき宴席を欠席したためと考えられる)
以後しばらく与一の動きについては日記に記されていません。
味噌つき、手打ちそばによる接待と忙しい日が続きます。
28日 酒宴あり、美佐は腹痛をおこし紫禁錠1粒をのんで回復
(紫禁錠=漢方薬の興奮剤の一種。じゃこう、はっかなどをねって方形に切り、金銀箔をつけた錠剤)
30日 井伊直弼は病気を理由に大老職を免ぜらる
ー閏月3月
安政7年は3月と4月の間に閏月3月が存在しました。
代官屋敷では平穏な日々がすぎています。
直弼は後継者を定めていませんでした。
正妻との間に子がいなかったためとされています。
側妻の子の中で年長の直憲(最後の彦根藩主)を後継者として届け出て受理されます。
閏3月末、正式に直弼の死が発表されます。
墓石には万延元年閏3月28日の銘が記されています。
ー4月お葬式
豪徳寺でおこなわれるお葬式の準備で再び人の出入りが多くなります。
9日 桜田屋敷を卯の刻(朝5~7時)出棺して九つ頃(正午ごろ)世田谷入り
昼の仕度を上40人・下15人分
9人が泊まり、与一も共に夜廻り
万次郎女房と娘に手伝いを頼む
夜は大雨
10日 午前中は雨、昼から晴れ
美佐、おこよとはつを伴いお葬式拝見に
与一は夜五つ(7~9時)見廻りのため豪徳寺に詰める
見廻りは16日まで
17日 法事が済み、残っていた藩士が帰る
与一も八つ頃(午後1~3時)代官屋敷に戻る
20日 体調を悪くしたのか美佐、医者に見てもらう
27日から29日 再び法事で与一は豪徳寺に詰める
ー2年後
事変から2年後の文久2(1862)年
直弼の護衛に失敗し家名を辱めた罪で彦根藩から事変生存者に処分が下されました。
重傷者・佐野(栃木県:彦根藩領)へ流され幽閉
軽傷者・全員切腹
無疵の者・全員が斬首・家名断絶(ウィキペディア)
彦根藩にも幕府から処分が下されます。
直弼の行った条約調印と安政の大獄を批判し10万石の領地が召し上げられました。
その後の彦根藩
彦根藩は幕府の軍事活動に協力することで3万石を回復します。
その後、明治元(1868)年戊辰戦争で幕府側ではなく明治政府に加わります。
彦根藩は幕府側の中心的存在から転じて新政府に加勢することとなりました。
明治19年3月
豪徳寺の直弼の墓の後方に変事の折に亡くなった彦根藩士8名の慰霊碑が建てられました。
美佐の日記には騒動の中にあっても日々を淡々とこなしていく人々の姿が記録されています。