大場美佐日記
安政七年(万延元年)霜月十五日 曇八ツ頃より雪ふり出し三寸程つもり
御誕生日の祝い致ス、忠次郎祝に付赤飯・にしめ到来ス、旦那八幡様へ御参詣被遊候、御祖母様も御参詣被成御帰り二万やへ御寄□(酒ヵ)肴御馳走有、おば殿も御迎ひ二来る御出之の事、
(世田谷区、2013、『大場美佐の日記』(復刻版):31)
新暦の12月26日頃。
雪が降る寒い一日でした。
夫・与一のお誕生日を祝っています。
赤飯なども届いています。
与一と御祖母様は八幡様へお参り。
帰りに寄った万やでは酒肴などをごちそうになります。
毎年の誕生日祝い
日記では毎年11月15日に誕生祝いをしています。
夫・与一の誕生日でした。
誕生日に与一の祖母らが八幡様へお参りするのが恒例のようです。
文久2年だけは11月15日ではなく12月1日に「誕生の祝致ス」となっています。
その年の11月15日は皆で美佐の実家である中延へでかけたため、誕生日のお祝いを延期しています。
近世以前の誕生日
近世の誕生日を研究している鵜澤由美氏の論文をみていきます。
まず近世以前の誕生日について述べられています。
宝亀6(775)年に天長節として光仁天皇六十七歳の誕生日を祝った記録が残っています。
おそらく唐の影響ではないかとしています。
宝亀10(779)年に二度目を祝ったあと、天長節は明治時代まで途絶えます。
しかし、天皇家において誕生日を内々に祝う慣例は続いていたようです。
年に一度ではなく毎月の誕生日(月々の誕生日に応答する日)も祝っているようです。
武家では足利義持、織田信長の誕生祝いの例があげられています。
この場合も誕生日は年に一度ではなく毎月の行事でした。
将軍家、大名家の誕生日
つぎに江戸時代、将軍家の誕生日についてみてみましょう。
将軍家では、家光の時代に誕生日を祝ったのがはじまりでした。
その後、家綱以降ほとんど例外なく将軍の在職中に誕生日を祝っています。
誕生日には殿中で老中以下の主だった家臣に餅などを下賜する行事が行われました。
祝儀に参加できない身分の者でも職務で登城した場合には祝の品をもらうことができたようです。
鵜澤氏は、誕生日の儀式は将軍とその下で御用を務めている者の関係を認識させる儀礼であったと考えられるとしています。
大名の誕生日にも藩士が集められ餅などが下賜されています。
祝の構造は将軍と同じでした。
公家の誕生日
公家は誕生日の行事に積極的でした。
いくつかの日記を調べた結果どの日記にも必ず誕生日の記事を見出すことができたとしています。
誕生日は節句のようなものであり、神仏の信仰とも結びついていました。
当主の誕生日を当主自らが盛大に祝いました。
家僕にも祝酒を振舞います。
公家にとって、誕生日は家としての行事でした。
下級武士や庶民の誕生日
史料上では当主の誕生日よりも子供や孫の誕生日の記事の方がはるかに多かったとしています。
赤飯を炊き家族や隣人と小宴を開いています。
幼児の無事な成長を神に祈りつつ祝っていたようです。
鵜澤氏は下級武士や庶民にとっては儀礼を重要視する必要がなく、当時死亡率が高かった子供に対しての思いが強かったためではないかとしています。
下級武士や庶民にとって、誕生日は家族の行事でした。
歳をとらない誕生日
誕生日がきても歳をとることはありません。
歳をとるのはその年の大晦日の直前でした。
『柏崎日記』では大晦日の昼過ぎに歳をとっています。
近世の人々の誕生日の概念は歳をとる日ではなく、個人の記念日というべきものでした。
産土神(うぶすながみ)詣
誕生日には産土神にお参りした例が多くあげられています。
産土神とは生まれた土地の守護神のことです。
また寺院に祈祷を頼んだりもしています。
誕生日は神仏と結びついていたようです。
共食(きょうしょく)
共食とは食事をともに食べることをいいます。
誕生日に神様へ供えた赤飯や餅を家族だけでなく家臣や近所の人々に配ったりもしています。
鵜澤氏はこれは「共食」の表れで、幸福もしくは災いをなるべく多くの人で分担してもらおうという意味をもつとしています。
誕生日に登場する食べ物
誕生日に多く登場する食べ物は餅と酒でした。
餅と酒は祝い事に出された食べ物です。
そして赤飯(小豆飯)。
小豆には古くから魔除けや厄除けの力があるとされています。
誕生日が「祝儀」ととらえられ、日頃の無事とこれからの息災を祈って行われる行事だった証拠だとしています。
(鵜澤由美『近世における誕生日 将軍から庶民まで そのあり方と意識』
国立民族博物館研究報告第141集 2008年3月:225-63)
大場家の誕生祝い
大場家の誕生日をみてみましょう。
大場家では当主である美佐の夫・与一のみ誕生祝をしています。
赤飯、酒も出ており、近所の人と共に祝うこともあったようです。
そして、八幡様へのお参り。
大場家の産土神は八幡様だったようです。
日記の記録としては「誕生日の祝ス」とだけなっている年も見られます。
文久4年11月15日朝曇小雨夕晴ル
一誕生日之祝致ス、清水先生来ル、福田へ法事二付岩太使二遣ス
(世田谷区 2013: 163)
この日が美佐の日記における「誕生日」の最後の記載です。
次の年、元治2(1865)年、与一は誕生日を迎えることなく亡くなります。
39歳でした。
美佐は31歳です。
日記を書き始めて6年後でした。