12月の節分

彦根藩世田谷領代官の妻 大場美佐

大場美佐日記

安政七年(万延元年)十二月廿四日 天気

節分例の通祝事、千葉より竹使来る、友笄こうがい・神明前へ歳暮に行、用賀へ紋塩引・茶遣ス、長・春来ル

(世田谷区、2013、『大場美佐の日記』(復刻版):35)

安政7(万延元)年の日記では12月24日に節分のお祝いをしています。

歳暮の季節でもあり、笄(港区麻布)神明前(港区芝)、用賀へ塩引(塩漬けにした魚)と茶を届けています。

友と紋(友次郎と紋之介)は大場家の使用人です。

翌日の餅つきの手伝いに長・春(長蔵とお春)が来ます。

12月は行事が多く忙しそうです。

8日 御事始め(納め)

12月8日は御事ヲコトという日でした。

「事始め」あるいは「事納め」として祝われていました。

2月8日にも「御事」はありました。

12月と2月のどちらが「事始め」「事納め」になるかは地方によって異なるようです。

12月を「事始め」とするのは正月の準備を始めるから。

2月を「事始め」とするのは春の訪れとともに農業の神様を迎えるからという理由からです。

『絵解き江戸の暮らしと二十四節気(清山社文庫)』

午前6時(7日夕方からでもよいが風が強いときはきをつけるように)ごろ、小籠を竿の先に結びつけて表の門口へ立てます。

夕飯は祝としてなます(魚を細かく切ったもの)ささがき大根、濃いめのごぼう、里芋、大根の入った味噌汁、いちょう大根とくじらの入の汁、香物などを食します。

(世田谷区、1986『口訳 家例年中行事(上町 大場家)』13-4)

美佐の日記では安政7年「例之通りおせちつくり、祝そはこしらえる」となっており、書院の大掃除もしています。

しかし、12月8日におせちを作った記録しているのは安政7年だけです。

後の日記には12月8日の日付に特別の行事の記載はありません。

13日 煤払い

毎年12月13日には煤払いすすはらいをしています。

安政7年の日記では手伝いを4人頼んでいます。

神棚もきれいにし、囲炉裏やかまどなどの縄を取り替えます。

朝は、ひえの粥と雑炊、昼は茶漬け、夕飯は煮物となます、いちょう大根とクジラ入りの汁で家族と使用人でお祝いです。

中休みには酒一升と香物を出すように指示があります。

(世田谷区、1986『口訳 家例年中行事(上町 大場家)』15-6)

15日 市町

毎年12月15日には市が立ちます。

今から400年あまり前に始まったとされる「世田谷ボロ市」です。

安政七年(万延元年)十二月十五日 天気

付例之通赤飯こしらへにしめ付村々より参り候者へ出し、広田氏御出郷麻壱わ・はな紙壱束到来、福田氏御出御土産に半弁・せり壱重・菓子折壱両人子供手遊戴き候事、預り置候かい巻壱・ふとん壱御持被成候事、千葉より竹来、植村殿より四人御出被成こぶ巻壱重到来、お春・長蔵手伝

(世田谷区、2013、『大場美佐の日記』(復刻版):34)

村の人々に赤飯、煮しめを出しています。

市町は新年を迎えるための用品や農具などを買い揃える機会でした。

慶応4年(明治元年)の12月の記録は欠落してありませんが、明治2年には「市」の記録があり、幕末の混乱期にも「市」は続いていたと考えられます。

16日まで寒中見舞い

12月初めから「寒中見舞い」のやりとりが日記に現れます。

安政7(万延元)年は12月16日に豪徳寺にみかんを持っていったのが「寒中見舞い」の最後です。

12月の後半は「歳暮」になっています。

21日 買い物

12月21日か22日は「買い物」へ。

美佐が旦那(夫・与一のこと)とお供を連れてでかけている年もあります。

江戸市中でしか手に入らないものもあったようです。

24日 節分

節分は立春の前日2月3日におこなわれます。

旧暦の12月中旬から1月中旬にあたります。

節分は立春の前日ですが、本来は季節の変わり目となる立夏・立秋・立冬の前日も節分でした。

(土屋ゆふ、2021、『江戸の暮らしと二十四節気』出版芸術社:節分)

豆まきは夕飯を一汁三菜で祝ったあとです。

鬼打ち豆を炒ります。

市で買っておいた赤鰯(糠をまぶして塩漬け、または干したさび色のいわし)を3つ、4つに切って串に刺し、豆がらを燃やした火で焼きます。

焼きながら「諸作付候虫の口を焼」(農作物につく虫の口を焼く)と唱えます。

柊の枝と赤鰯を門の左右に同時に挿します。

「福は内々」2回「鬼は外」1回を三度、各部屋で年男が唱えて豆をまきます。

鬼打ち豆は、焙じたお茶に入れ皆で飲みます。

厄年の人は鬼打ち豆を年の数だけ紙に包んで全身をなでたあと往来四ツ辻へ捨てます。

(世田谷区、1986『口訳 家例年中行事(上町 大場家)』35-6)

『 家例年中行事 』には、それぞれの行事について、詳細に準備するもの、行事の進め方などが記載されています。

25日 餅つき

親戚の千葉・青山の分もついています。

21日から餅つきの手伝いが入ります。

文久2年の日記からは「かちんねり」としている年もあります。

豊国 十二月之内 師走餅つき3組のうち 嘉永7年(1854)蔦屋吉蔵出版 国立国会図書館デジタルコレクション

29日 松飾り(門松)

12月29日に手伝いを頼んで松飾りをこしらえています。

万延2年は「三りんぼう」のため三十日にお飾りを延期しています。

「三りんぼう」 は忌み日とされているためです。

元治2年を除き松飾りをこしらえるのは毎年29日です。

文久2年「御屋敷様御えんりょに付き彦根藩ご領分中門松なし」とあり、門松は建てていません。

彦根藩が『桜田事件」などの混乱を招いたとして幕府から処罰を受けた年です。

彦根藩は30万石のうち10万石を召し上げられました。

旧暦から新暦へ

暦は、明治5年12月2日(1872年12月31日)を最後に現在の暦に変わります。

明治5年の美佐の日記では、霜月(11月)29日がその年の最後の日付です。

その年は11月13日「煤払い」25日「市町」そして最後の記録が29日「餅つき」です。

明治6年の日記はありません。

明治7年以降12月の行事は13日「煤払い」15日「市町」25日ごろ「餅つき」に定着しています。

歳末と正月は混乱することなく旧暦から新暦に移行したと考えられます。

「12月の節分」はなくなりました。

また、2月の日記に「節分」のことが記されている年はわずかです。

「節分」は恒例の年中行事ではなくなったのかもしれません。